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マンガ家Mの日常
インタビューの中で、ジェンダー・バイアスが発生する要因の一つとして、
少女マンガ家のデビュー年齢が指摘されている。

集英社系では特に早い方が良いと考えられている。
15歳か、16歳くらい。
その辺りの年齢が読者ターゲットの年齢層に近く、
読者の感性をそのまま描けるからというのが理由。
まだ子供なので、大人の編集者がコントロールし易いというのもある。
「別マ」では20歳過ぎたら新人賞で受け付けないという話まで聞こえた。

16歳でデビューして、社会経験が乏しいままマンガ家生活に移行。
描けるジャンルは限られてしまう。
その事に気付きもしないかもしれない。

出版社としては、売り上げが第一なので、
そうした雑誌を好んで購入する読者にも責任の一端はある。
とは言え、多くの女性読者が少女誌から離れ、
少年誌や青年誌を購入するようになったのは、
ラブコメ一辺倒の少女誌では意識を満足させられなくなったからに他ならない。
そういう読者を逃してしまったのは、編集部の戦略の失敗だとしか考えられない。

OLを読者ターゲットに掲げた女性誌でも、
読者の中心は専業主婦だったりするので、
主婦にとって身近で関心の高いテーマ、例えば料理、生活情報等を
描くよう求められる。
それがマンガの役割なのか、と思ってしまう。

10代の少女にとっての恋愛、
40代主婦にとっての家事、
そういった身近な今の関心事に意識が集中し、内向きになり、
外界に関心が向き難くなっている。

読者、編集部、マンガ家、
3方が首を絞めあっている。


このマンガ家さんの経歴として、(有名)女子大哲学科中退と紹介されている。
将来的にマンガ家を目指していて、見事デビューを果たし、仕事が軌道に乗り、
忙しくなったので中退に踏み切ったのではないかと推察されるのだけど、
やはり、大学は卒業して欲しかったと思う。

記事として、有名大学の名前を載せる辺りが、
インタビューに説得力を持たせようという、
一種の学歴バイアスのようにも感じられる。

世の中、バイアスに満ちている。
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以前にも書いた通り、
恋愛に意識を高める事が悪い訳ではなく、
人と人との関わりにおいて、恋愛はとても重要だと言う事に変わりはない。
しかし、子育てが女性の役割に限定されていたように、
恋愛もまた、女性の役割に定められてしまうのか。
女性は恋愛に人生を捧げなければならないのか。

5年前、「別冊マーガレット」創刊50周年記念で
大規模な原画展示会が開催された。
数々の名作の原画が見られるとあって、喜び勇んで鑑賞に赴いた。
原画展そのものは期待以上の素晴らしい内容。
ところが、全体のタイトルとして「LOVE」がクローズアップされており、
図録の表紙も、人気キャラクターのキスシーンで埋め尽くされていた。

一体、誰が、何故、
少女達を恋愛のカテゴリーの中だけに監禁しようとしているのか。

はい、
ここでまた編集部批判をすると、ブラックリスト入り強化されそうですが...。

商業誌の永遠の課題として、売上を伸ばさなければならないのは、
編集部のみならず、マンガ家にとっても共通認識。
雑誌作りにおいては編集権のある編集部が上位にあり、意思決定の権利を持つ。
また、担当するマンガ家の成績が編集者の成績ともみなされるので、
担当マンガ家の読者アンケートを伸ばす事に力を傾ける。
そうすると、手っ取り早く結果を出す為に、
今流行っている作品に寄せた作品を描くよう、マンガ家にテコ入れする。
マンガ家は、仕事をホサれるのを恐れて、編集者のリーディングに背けないし、
アンケートで上位に行けば自分自身の得でもあるので、
ウカウカと乗っかってしまう。

その繰り返しで、
雑誌は「雑」の特性を失い、同傾向の作品ばかりがひしめき合う。

70年代前半に少女マンガが爆発的ヒットを生み出し、
商業としての位置付けを確立させた。
しかし、それが逆に足枷となって、売上第一主義がどこまでも強化され、
視野狭窄に陥った。

誰もがマンガ家を目指したきっかけとして、夢中になって読んだ作品があり、
憧れのマンガ家さんがいた。
私も萩尾望都先生に傾倒し、萩尾先生のような作品を描きたいと願った。
最初は単純なテクニックの真似から始まるものではある。
でもそれはあくまでも修業時代の段階まで。
デビュー出来る段階を超えたら、自分自身の個性を見つめ直す。
「〜先生のような」という気持ちはずっと持ち続けるけれど、
それは、〜先生のような洞察力や感受性、作品世界の奥深さを見習うという事。

そうした事はマンガ家個々人が長期的姿勢として抱える事で、
次号の売り上げに追われる編集者は待ってはくれない。

さあ、読者の共感を得る為に、まずは身近なラブコメを描きましょう。



ネットで気になる記事を見たので、
印象の強いうちに意見を書いておきたくて、
いくつか途中の記事がある中、こちらのテーマを先行させました。


集英社系、35年のキャリアのベテランの人気女性マンガ家さんが、
ご自身の作品の中で、少女マンガにおけるジェンダー・バイアスに触れて、
そういうマンガは排除されるべきだと、キャラクターに語らせた。
そのエピソードと、マンガ家さんのインタビュー長文が掲載されていた。

簡単に言ってしまえば、

可愛い少女が男性の付属物的な立場に邁進する姿ばかりが描かれた
既存の少女マンガが、女性の立場を危うくしてきた、という問題提起。

このマンガ家さんが語っておられる事には、ほぼ100%賛成。

でも、ちょっと「ん?」とも思わされた。


初めに、このマンガ家さんの作品をきちんと読んでいなくて、
その為に何らかの齟齬があるかもしれない事をお詫びしておきます。

また、他のマンガ家さんの作品について評論めいた事を書くのは
極力避けてきました。(レジェンドを除く。)
今回も、個人のマンガ作品についてというのではなく、
ジェンダー・バイアスの問題点から話を進めるよう注力します。


正直に言えば、
「おいおい、今更言うか。」と思ってしまった。

集英社の少女マンガと言えば、それこそ、ジェンダー・バイアスの巣窟。
とびきり可憐な女の子がイケメンとくっつく話がテンコ盛り。
35年も経って、ようやく言い始めても、遅くないか?
(記事によれば、ジェンダー・バイアスを打ち破るようなキャラクターも
 以前の作品中に登場させておられたとの事。)

60年代から70年代にかけて、集英社の少女マンガでは、
「アタックNo.1」「ベルサイユのばら」「エースをねらえ!」といった、
少女や女性が大胆に活躍する作品が、むしろ主流だった。
個人的に、その頃のマンガに憧れて育った。

ところが、70年代半ば過ぎから、
集英社系でIVマンガと呼ばれる、可憐な少女の学園ラブコメディが席巻。
現実的で巧みな心理描写が重視される傾向の一方で、
それまでのダイナミックな冒険心溢れるドラマは駆逐されてしまった。
少女マンガにおけるジェンダー・バイアスは、
その後の時代に活躍した女性マンガ家が作り上げたものでもあったとも言える。

60年代、70年代前半の少女マンガでも、勿論ラブコメディは多数描かれた。
でも、その後の少女マンガに比べると、恋愛においても、
少女達が男性のご機嫌とりに心血注ぐのではなく、
自分自身の魅力を磨く事に意識を向けていたように思える。

岡ひろみは、藤堂さんのサポートの為にテニスを捨てたりしなかった。

ブログページを開いた時、
トップバーに「安全ではありません」の表示が出る件。
運営サイトから回答がありました。

このサイトはSSL非対応なので、そういう表示が通知されるけど、
特に問題はないらしいって。

で、SSLって何?

調べたら、暗号化の形式の一種らしい。
よく分からないけど、
暗号化する事で安全を担保するのね。

そこまでする程重要なサイトでもないって事なのか、
運営が追いついていないって事なのか。

他にもこの表示が出るサイトがいくつかある。
今後、改善されていくんだろう。






仕事のペースが荒れていた竹宮先生を、
編集者が上原きみ子先生の所にアシスタントに行かせるくだりがある。

曲がりなりにもプロ作家として収入を得ていたら、
アシスタントに行く必要は無いし、
締め切りの遅れが続いていたら、それどころでは無いと思うのだけど、
担当さんとしては、上原先生のプロ意識を学ばせたかった。
今時、そういう親心のある編集者はいない。
出版社が若いマンガ家を育てようという意欲があった、良い時代。

以前知人から聞いた話で、ブログでも触れたかもしれない。
上原先生はマンガ家になる事を両親から猛反対されていて、
条件として、主婦としての地位をもって社会人と認められるよう、
仕方なく、好きでもない男性と結婚する事態になった。
夫となった男性もまたマンガの仕事を嫌がって、
締め切り直前の一番忙しい時に、わざと会社の人を自宅に招いて、
上原先生に接待を強いたとか。
それ程までに周囲から反対、邪魔されても、マンガの仕事を続けたかった。
読者からデッサンの狂いを指摘される事さえあったそうだけど、
ギリギリの状態で仕事をしていたので、批判も飲み込まざるを得なかった。

イヤイヤ行ってみると、竹宮先生も良い影響を受けたらしい。

でもその前に、本文の中には、上原先生に対して
「自分が評価しないタイプの作品」と書かれている。
そうかもしらんが、いや、そういう書き方をするかね。

上原先生の作品は、キラキラした可憐な少女が活躍する、
少女マンガの王道とも言えるタイプ。
当時の「少女コミック」の柱だった。
読者は上位3作品くらいが目当てでマンガ雑誌を購入するとされている。
アンケート10位前後を行ったり来たりしていた竹宮先生の作品は
雑誌の売上に貢献しているとは言えず、
言ってみれば、上原先生のおかげで食べていけていたようなもの。
敬意を払わずしてどうする。
若気の至りで、「評価しない」と思っていたにせよ、
今回本に書くにあたって、もう少し穏当な表現を考えられなかったのかなぁ。