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マンガ家Mの日常
iMacでブログを開くと、
トップのバーに「安全ではありません」の表示が出るようになった。

えっ?

乗っ取りとか、ウイルスとか?

とりあえず、サイトに連絡。
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ファンレターをくれた読者の中から、
有望そうな子を選んで仕事場に招待するというのも、なかなか大胆な試み。
増山さん自身がそういう立場だったから考えついたのか。
石ノ森章太郎先生や永井豪先生も、読者の方と丁寧な交流をされていたらしく、
当時はマンガ家と読者が直接会って話す事に、あまり抵抗がなかったのかな。
女性マンガ家の場合、仕事場と自宅が一緒だったりする事が多いので、
読者を招待するのはちょっとはばかられる。

招待された中に、たらさわみち先生、村田順子先生の名前がある。
当時はまだ高校生だったのかな。
未成年を東京まで来させるのも、今だとちょっと問題になるかも。
竹宮先生の元でアシスタントを経て、後にデビューし、活躍。
特にたらさわ先生は竹宮作品の人物やカラー原稿も多く手がけていたようで、
デビュー時も竹宮先生の絵柄をそのまま引きずる形になり、
読者として当時はやや抵抗を感じたが、
それだけ丁寧で信頼が置ける仕事ぶりだったのだろう。

アシスタントからマンガ家デビューして、ものになる、
そういう当たりが多い仕事場とそうで無い仕事場とある。
偶然もあるだろうけれど、作品の本質とも関係があるかもしれない。
竹宮先生の作品はメジャーで、システマティックな作り。
それに対して、萩尾先生の作品は孤高の芸術家のなせる技なので、
追随するのは難しい。
萩尾先生を慕うマンガ家は数しれないけれど、
アシスタントからメジャーデビューしたケースは記憶に無い。
知らないだけかもしれないけど。

本文中、交友関係として挙がった中に、佐藤史生先生の名前もある。
「金星樹」が代表作として紹介されているが、
ストーリー設定は完全に海外SF小説の引き写しで、
パクリを越えて、盗作と言われても仕方の無いレベル。
果たして、著作権者と合意が出来ているのかどうか。
そうでなければ、絶版にされるべきだろうけど。

佐藤先生は語学が堪能で、
日本語未訳の海外SF小説を原文で読んでおられたそうで、
それが情報源、ネタ元となっていた。
当時はまだマンガそのものの社会的地位が低かったから、
映画や小説をネタ元として流用するのに抵抗が無かった。
当然、竹宮先生や萩尾先生の作品にも、そういう影響は見られる。
エピソードがオリジナルでなかった事に大人になってから気づいて、
裏切られたような、残念な気持ちになる時もあったけれど、
当時の状況がそういった感覚だったのだから、何かを恨んでも仕方がない。



本文中はイニシャルで表示されていた編集さん達。
後書きで本名が出てるから、イニシャルにする意味があったのか何だか。

Yさんは誰だかすぐに分かった。
長年、萩尾先生に寄り添った、名物的な編集さん。
「プチフラワー」の初代編集長で、
それこそ、Yさんが萩尾先生の為に立ち上げた雑誌だった。

どうしても萩尾先生の作品が掲載されている雑誌でデビューしたくて、
持ち込みを続けていたので、何度かY編集長にもお目にかかった事がある。
気さくで、ズケズケものを言う人だった。
何とかデビューさせてもらえたけど、直後に隔月刊になって、
定期的に掲載されるのは無理そうで、年間通しての原稿料は見込めず、
生活が出来ないのも困るので、
当時発行されて間もなくて、掲載の余地がありそうなカドカワに切り替えた。

「プチフラワー」でも「ASUKA」でも、新人賞で、
萩尾先生やささやななえこ先生は私の応募作をトップに付けて下さったのに、
竹宮先生だけは点数が辛かった。
タイプが合わないのかもしれなくて、それもまた、
その後竹宮先生の作品に抵抗を感じた原因の一つだったかもしれない。

翻って、竹宮先生もまた、Yさんと作品傾向が合わなくて、嘆いていた。
担当編集者や編集長と、性格や作品のタイプが合わないと、
打ち合わせがスムーズにいかず、作品を会議で押してもらえず、苦戦する。
編集者との相性は、マンガ家にとって重要。

しかしそれよりも、この時の竹宮先生の場合、
Yさんを通じて、萩尾先生との差を感じ取っていたのだろう。
とは言え、編集部で打ち合わせしてる時に、
「Yさんは私の作品が嫌いなんでしょう。」なんて言って、
マジで泣いて騒ぐのも、大人としてどうだかなぁ。
マンガ家として上り調子の頃だったから、ウマの合わない編集者に固執せず、
いっそ出版社を移る選択も出来なくはなかった筈。
(「ASUKA」はまだ無かったけど、「花とゆめ」は創刊されていた。
 「花とゆめ」なら竹宮先生の路線に合うだろう。
 ただ、老舗の小学館から白泉社では、都落ち的に思えたかもしれない。)

とにかく、竹宮先生は、萩尾先生やYさんに気に入られる事が重要だった。
その心境を半分理解出来るし、半分理解出来ない。
学級カーストで、憧れのグループに入れないような感覚だろうか。
私自身はマンガ家としてギリギリだったので、仕事にしがみつくのが優先で、
憧れの人にこだわり続ける余裕は無かった。
友人関係でも、相手と合わない空気を感じ取ったら、去る癖が身についた。

竹宮先生と増山さんが、どういった環境で一緒に仕事していたのか、
見当が付き難い。
会社のように、時間割を決めて増山さんに出社してもらって、
日々の進行に沿って打ち合わせを進めたのかな。
そうなると、増山さんの仕事としての時間配分はどうだったんだろう。
進行の段階によっては、いてもらっても困る時さえある。
この時期、週刊連載がメインだったから、タイトなスケジュールで、
日々の進行がはっきりしていたから良かったのかもしれない。

マネージメントその他の仕事をこなしてくれるスタッフがいてくれると、
マンガ家は創作に集中出来るので有り難いのだけど、
そうなると当然お給料分も稼がねばならなくて、責任が大きい。
仕事として一定期間拘束する以上、相手の一生についても頭をよぎる。
個人でマネージャーを雇える女性マンガ家は数少ないだろう。
仕事の能力は勿論、相性もあるし、信頼出来るかどうかがまた難しい。
スタッフに大金を持ち逃げされたなんていう話だってある。
諸々考えると、増山さんの存在は竹宮先生にとっての奇跡でもあった。

若くて才気煥発な竹宮先生について、増山さんの最初の印象が興味深い。
「COM」に掲載された作品を読んで、「嫌な子」だと思ったと言う。
どう描けば「COM」に気に入られるかを分かって描いた作品だと言う感想。
竹宮先生の本質とも言える自意識の高さを10代で見抜いていた。

表現の奥深さ、強さと同時に、時としてこれ見よがしな感も見え隠れする。
才能に魅了されながらも、あざとさが鼻について敬遠したくなる部分もある。
そうした感覚が画面から離れた瞬間、作品は純粋でかけがえのないものとなる。
2人の感性が噛み合っていた時期が最良の創作期だった。
竹宮先生の名作はこの時期に集中している。
竹宮先生にとって、名作の思い出は、増山さんの思い出でもあるだろう。

コンビ仲を揶揄される形で、レズビアン疑惑も噂されたりしたらしい。
それに関しては竹宮先生はきっぱり否定しているが、
性的な表現を作品に盛り込んだり、
自らをバイセクシュアルと言ってみたりする辺りにも、
竹宮先生の、最先端の大人ぶりたい自意識の高さが伺えて、
疑惑を持たれる事にも密かに喜びを感じていたのではなかろうか。

増山さんとはある時期を持ってコンビを解消している。
それがいつで、どう言う理由からなのかは、今作の中でも明らかにされていない。
あまりに個人的な理由だからなのか、説明が長くなり過ぎるからなのか。
出会いの重要性と共に、別れも重要であると思うのだけれど。

ノンフィクションの場合、どうしても当事者間で気まずい状況が発生する。
出来事についての言い分は人それぞれだろうし、
仮に事実だとしても、公にして欲しくない事もあるだろう。
人間関係についてかなり踏み込んで書かれているのは、
竹宮先生が既にマンガを描く仕事から離れて長くて、失うものが無いから。
とは言え、流石に最も気まずい事柄には触れられていないように思う。
もっとドロドロがあったとあちこちから漏れ伝わっている。
それでも、嘘にならぬよう、竹宮先生自身、
当時の傷口を開く思いで書かれた部分も多々あるだろう。

若輩ながら商業マンガを描く身としては、
マンガ制作についてのノウハウ的なものに関心があったのだけど、
それよりも、若き日の竹宮先生は、竹宮先生をマンガ家たらしめた
周囲の人達への思い入れが強いのに驚かされる。

仕事に集中するべく、20歳で大学を中退して上京。
間も無く同年代の萩尾先生や増山さんと知り合う。

この増山さんという方の立ち位置については、
担当編集者も混乱していたとある。
マネージャーと呼ばれるのを嫌って、
少女マンガにおけるプロデューサー的な仕事を確立させようとしていた。
少年マンガに比べて、少女マンガは個人の感性を主体に創作される傾向が強く、
マンガ家が全て1人で創作する仕事の仕方になる。
現在もそういうやり方がメインではあるが、仕事が小規模に収まる嫌いはある。
竹宮先生を通して少女マンガの世界を変革していこうと、
プロデューサーを買って出た増山さんの胆力は大人顔負け。

出会った当時、親の希望で音大入学を目指して浪人中だったそうで、
そうなると、19歳か20歳か。
年齢にしては感性が非常に大人びている。
家族の影響で幼い頃から様々な芸術に触れて来たので、知識で圧倒している。
竹宮先生の増山さんに対する憧れ以上の心酔ぶりが伺える。
増山さんに翻弄されながらも、創作面で頼りにしている。
増山さんがいなかったら、作品がもっとずっと独りよがりになって、
立ち行かない場面もあっただろう。
僅か20歳で上京して一人暮らしする中で、
家族のように側にいてくれる存在が不可欠で、同時に、
徳島出身の竹宮先生には、都会っ子でパトロネス的な増山さんは、
文学作品の世界のヒロインそのものに映ったのだろう。
裕福な家庭の育ちで、時としてわがままお嬢様ぶりも伺える。
それもまた愛しく感じられたのだろう。

増山さん自身は音楽の道に進む事も、マンガ家になる事もかなわず、
竹宮先生の創作のアドバイザー的なポジションに収まる。
増山さんの仕事を確立させたのは、増山さん自身の力だけではなく、
竹宮先生のリードでもあったと言える。

(続く。)