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マンガ家Mの日常
マンガ家と編集者との間にどこまでの信頼関係が構築されるのか。

それは「個人的」な関係性では問題があるので、
あくまでも「会社」としての信頼関係が望ましい。

ただ、それもまた微妙で、
「会社」として利益を優先する立場であれば、
巨匠クラスから下位グループまで、待遇に大きく差をつけられ、
下位グループのマンガ家はより蔑ろにされかねない。

やはりマンガ家にもユニオンがあれば助かるのだけど、
まだ影も形もなくて、仮に今設立されたとしても、
団体として成熟するまで、何十年も要するだろう。


ネットニュースで、様々なマンガ家さん達の追悼コメントが紹介されていた。
記事としてのバリューが求められるので、
拾われたコメントは、巨匠クラスから中堅どころがメインだろうか。

情緒的なものから、かなり厳しめのコメントまで、少し幅がある。
マンガ家さん達それぞれの立場や編集部との関係性が透けて見える。
言いたい事を言い切って平気なマンガ家さんもいれば、
現在の編集者との関係性を気遣うマンガ家さんもいる。


編集者も人それぞれで、マンガ家さんとの繋がり方もそれぞれなので、
担当編集者もその時々で対応がまちまちだろう。
どこまでも担当のマンガ家さんを守ろうとする編集者もいれば、
その同じ編集者が他のマンガ家には冷たかったりする。
何とも言えない。
所詮、人間がやる事。

事情はそれぞれなので、正解は見つからないけど、
結局は明確なルール作りをするしかないだろう。


マンガ家になって、
マンガ制作だけに打ち込めると思っていたが、
なかなかそうはならない。
それが人の世の常で、
そういうトラブルをマンガの中に描くのが作家なのだろう。

(このテーマ、一旦完了。)
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芦原妃名子先生訃報を受けて、
日本テレビと小学館がそれぞれ追悼コメントを出したが、
いずれも責任逃れに終始したような、冷たい印象だった。

その後、小学館コミック第一編集部が改めて追悼文を公表。
小学館上層部との調整に時間を要しての後出しになったのだろうと言われている。

それは、人情に訴える文面だった。

でも、逆に、

逆にと言うか、
今回の事件との対比においては、どこか綺麗事にまとめたような、
上手な文章の空々しさが感じられた。

普段からここまで美しい話を並べられる状況だったら、
こんな事にはなっていなかっただろう。

芦原先生クラスの人気作家なら、
編集部も日頃から相応の敬意を払っていただろうとは思うのだけど。


出版社によっても状況は様々だと思うのだけど、
小学館は特に編集者の移動が頻繁に行われると言われている。
他の出版社でも、マンガ家と担当編集者が「お友達」にならないよう
編集部で指導されている。

距離が近くなると、信頼関係が深まるメリットはあるけれど、
編集者は1人のマンガ家にだけ付いている訳ではないので、
近しくなり過ぎると、他の担当マンガ家から「贔屓」だと見られてしまう。
まぁ、時には実際そうなる。
仲の良いマンガ家に仕事を振ったり、積極的にフォローしたりする。
多分以前にも少し書いたと思うのだけど、
それで、マンガ家が担当編集者に頼りきりになると、
担当が替わった時に身動き取れなくなってしまうので、それもマズイ。
マンガ家と担当編集者、編集部との距離感って難しい。

(続く。)


原作に忠実にと言われた場合、
横溝先生の作品であれば、長編なので、相応のページを求める。
ハーレクインであれば、マンガの原作としてのレベルに届いていないので
仕事をお断りするしかない。

ハーレクイン小説の作家さん達は一体どういう契約を結んでいるのだろうか。
コミックスの状況を知っているとも思えない。
日本の編集者がマンガ家に丸投げするのは、多忙も理由の一つ。
出版社として、仕事の全体像の見直しが必要。


この数日、SNSで様々な意見が飛び交った。

日本漫画家協会は契約のサポートをすると言うが、正直あまり当てにならない。

映像化の脚本のやり直しを求め続けたら、企画が消えた例もあるが、
大半は途中で妥協している。
それなりに大きな企画が進行していると、それをストップさせるのも難しい。
あれこれ注文をつけると、「痛い」作家だと思われそうという声もあった。
編集部からするとそうなるだろう。
いちいち面倒を言わずに従って欲しい。

このブログでも以前に書いたように、私はデビュー間もない頃から、
あやふやだったり、一方的だったりする契約書にはクレームを言って、
作成し直してもらっていた。
それは社会人として当然の判断なのだけど、
編集部に嫌がられただろう事は想像に難くない。

まだブログで書く準備が出来ていないのだけど、

アシスタント時代には、ブラックな仕事状況に反抗し、仕事場を離れた。
マンガ家になって、そこそこの年齢になっていたにも関わらず
セクハラを受けて、会社相手に裁判で闘った。

あちこちで「権力者」に楯突いて、困難な状況に陥った。
それは、仕事や収入にも直結する。
あの時へいへいと従っていれば、仕事は続いただろうと思う事も無くは無い。

しかし、やはり、意志を通して良かったと思う。

仕事の現場では協調性は大事だが、妥協と協調性とは似て非なるもの。
妥協はその後の人生に影をさす。
妥協せざるを得なかったネームは、悔しいまま記憶に残る。

脚本に妥協できなかった芦原先生は、どんなにか苦しかっただろう。


マンガ家、
特に女性マンガ家の地位の低さもようやく問題視されるようになった。
まだ当分は改善されはしないだろう。

しかし、

悲劇を防ぐ為にも、
一人一人が闘う姿勢を忘れない事が重要だと考える。

実体験で自分の意志を貫けない作家の作品に、
果たしてどんな「実」があるだろうか。


(このテーマ、一旦完了。)


劇作家の鴻上尚史氏が、
問題は原作者と脚本家ではなく、出版社とTV局にあると語っていた。

その明らかな問題点について、記者会見等で深く検証されるべきだけど、
本当の責任者は姿を表さないだろうな。
小学館と日本テレビ、出版と報道の頂点に君臨する最大手企業の在り方。
旧ジャニーズ事務所に比べて、遥かに情けないよね。


零細マンガ家として、私自身は映像化等を求められた経験は無いけれど、
原作小説をコミック化するという逆の立場から、
このブログでも色々と困難な背景を語って来た。

横溝正史先生は既にお亡くなりになっていたし、
カナダやアメリカに住むハーレクイン作家と会うのは現実的ではない。
それを別にしても、
原作の改変に関して編集部と話し合いを望んでも、
まず取り合ってくれる事は無かった。
編集部は仕事が増えて面倒だし、作家との万が一のトラブルを避けたいから。

全く話にならない。

原作があれば、その分のコミックスの印税を引かれる。
(当時のカドカワのみ、10%出してくれた。)
原作をただなぞるだけで良ければ
ネーム作業も楽で、名作が仕上がるんだろうけど、
長編小説をコミックス1冊分にまとめるとなれば、
多くのエピソードを削り、継ぎ接ぎして形にしなければならない。
逆に、ハーレクイン小説は不都合が多く、
エピソードそのものを大幅に作り変えなければならなかった。

そういう話し合いを担当編集者に求めたけど、
全くレスポンスが無かった。

これでは安心して作品に取り組めない。

(続く。)


出来事の一連の流れで行くと、
契約通りに原作に忠実にとはならない脚本の提出が続いたので、
芦原先生は脚本家の交代を要求し、更に9、10話の脚本を執筆。
その後、降板させられた脚本家がSNSで意見表明。
SNSが炎上し、芦原先生は「X」を開設し、状況を説明。
原作者と脚本家の対立構造が出来上がってしまった。

先の脚本家のSNSでのコメント等が殆ど報道されないので、
諸々具体的な事はわからないが、
プロの脚本家としてご自分の立場を説明したい気持ちは理解出来るし、
おそらく、戦いの先陣を切った訳ではなく、
その前に既に様々なSNSが荒れて、
意見せざるを得ない状況になったのだろうという事は想像に難くない。
しかし、結果、戦いの火花に油を注いだ形になってしまった。

原作を守れなかった出版社と、
原作を改竄したTV局の製作者達に問題の根本がある。


この数日の報道で、主にマンガ家や作家からの様々なコメントを目にした。
しかし、中には情緒的なだけのコメントも多く、
問題から目を背けているようにも感じられてしまった。

はっきり言ってしまうならば、

そうした人達は、ご自身の仕事への影響を考慮して、
出版社やTV局への表立った批判を避けたのだ。

それは、社会人としてはよく見られる光景。
自分の生活は守らなければならない。

ただ、大勢がそうする事によって、問題隠蔽の一種の共犯関係が成立する。

映像化にあたってトラブルに見舞われた経験がある方々は、
その経験を是非とも語るべきだと思う。
トラブルを明確にする事によって、今後の解決策が見出せる。

皆、現場では原作を守る為に必死で戦って来られただろうと推察するけれど、
その戦いを後世に繋げていかなければ、物事は進展しない。
次の人達はまた1から同じ戦いに臨まなくてはならない。

(続く。)