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マンガ家Mの日常
誰しも、ちょっと疲れてると、立ち上がるのが億劫になる。
かと言って、そのまま横になっていたり座ったりしている訳にもいかない。

そんな時は「立て、立つんだ、ジョー!」と自分自身に呟く。
マンガファンでこの台詞を知らないヤツはモグリだ。
名作「あしたのジョー」のコーチ丹下段平のかけ声。 

朝の、まだ気怠い時間帯にはこの台詞が必要になる。
私の中に何人の「ジョー」がいるのだろうと思う。


先日、友人達と久々に食事した折に、「バガボンド」や「スラムダンク」が話題に上り、
「スラムダンク」は果たしてあれで結末となっているのか?という話になった。
ミステリーなら、大体は事件解決ではっきりとした結末がつくのだけど、
スポーツものって結構難しい。
優勝に漕ぎ着けて終わるのがベストなんだろうけど、
それって、勝ち逃げっぽくて、ちょっと感じ悪い。
で、高校で優勝したら、その次は大学とか、オリンピックとか、プロとか、メジャーとか、
先に進もうと思えば、延々と続けられる。
キリが無い。


梶原一騎先生は、
「世の中にヒーローなんていない。」という、ご自身の姿勢を元に、
自作の主人公は大体死なせて終わった。
「あしたのジョー」は、ちばてつや先生の類稀な感性によって、
何処までも余韻が広がる幕引きとなった。

「タイガーマスク」は、アニメは重厚感ある終わり方だったけど、
コミックスの方では、確か、
普段着で歩いている時に、車にはねられそうになった子供を庇って、自分がはねられた。
道端に倒れ、息を引き取る直前に、鞄の中に入っていたマスクを川に投げ落とした。
あくまでも仮面レスラーの正体を隠し通そうという矜持。
でも、結構あっさり死んでしまって、マンガファンには不評なような。

「愛と誠」では、ヤクザの抗争みたいな感じに巻き込まれて、
闘って、ボロボロになって死んだ。
最初からの設定上、そうならざるを得ないか。

ところが、
「侍ジャイアンツ」では、
主人公の番場蛮は、熱戦を投げ抜き、マウンド上で仁王立ちしたまま息を引き取った。
井上コオ先生の軽やかなタッチで、ギャグ風味も交え、
明るい雰囲気で、アニメも人気だったので、
コミックスの方でも、何もそんな悲しい終わり方しなくても…と、残念に感じた。

梶原一騎先生の方針はともかくとして…。
「侍ジャイアンツ」ファンの読者は、皆、唖然としたのではなかろうか。


長期連載マンガの終わり方は難しい。

まぁね、恋愛マンガだって、
「結婚」がゴールインではない事は、もう誰もが知っている…。
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タイトルは思い出せない。
ごく短めの短編だった。

あすなひろし先生の、大人の恋愛ドラマ。

大人の男女の出会い。
女性の誕生日に、男性がプレゼントをする。
男性は「無骨で女性の好みもわからないから、好きな物を買って欲しい。」と、
桐の箱に収められた商品券を送る。
女性は開封せずに、箱のまま取って置いている。

結末もよく覚えていない。
男性が亡くなって、女性が思い出を語っていたのだろうか。

あすなひろし先生の絵と語り口が、大人の恋愛をしめやかに見せる。
感情を抑える事で、一見地味な恋愛であるかのように見えるが、
互いへの敬意に、愛情の深さを感じさせられる。
ただ、お金や商品券を渡すのではない。
桐の箱に、男性の隠された知性と品格が表れており、
女性もそれを感じ取って、敬意を払っているからこそ、桐の箱を大事に取っている。


ネットでもボロボロ上がって来る、昨今の恋愛マンガ。
目にするのは断片的ではあるけれど、
登場人物の自我が強くて、やたらと感情を昂らせる。
恋愛に限らず、対人関係が殺伐として、自己承認欲求だけが渦巻いている。
読者にとってある種のストレス解消になっているのかもしれないけれど、
心理的に良い影響に繋がるとは思えない。

今朝、何の気無しにFacebookを眺めていたら、
海外の友達(見ず知らず)が、子供の頃の思い出話として、
TV放映された特撮の「ジャイアントロボ」を紹介していた。

巨匠、横山光輝先生の作品。
TVドラマ放映を前提とした依頼で描かれた。

朧げには知っていたけど、TV放映を見た記憶は無い。
日本での放映から少し遅れて海外で放映されただろうから、
それで海外の人達の方が記憶の範囲にあるのかな。

横山光輝先生と言えば、「伊賀の影丸」のような忍者ものが印象深い。
TVアニメの幕開けの時代で、「鉄人28号」のようなタイアップのロボットものや、
「魔法使いサリー」のような少女マンガまで、活躍の幅が広い。
その後は「バビル2世」や「三国志」等。

連載の長期化やイメージの固定化で、
代表作が1、2作に絞られてしまう昨今のマンガ家とは、仕事ぶりが違う。

Wikiで「ジャイアントロボ」について見てみると、
当時、多忙を極めた横山先生が手がけたのはラフコンテくらいまでで、
後はプロダクションのお弟子さんにあたる、小澤さとる先生に任せていたらしい。
そうしたところ、作品の方向性の食い違いが出て来て、小澤先生が途中降板。
その後は横山先生が引き継ぎ、(当然ながら?)絵柄が変わってしまった。
後年コミックス化に当たって、大部分を描き直したとか。
仕事場にドラマあり。

雑誌連載は2年間程で完了。
それが1968年で、その後学年誌に描き下ろししたのが1972年2月。
つまり、作品の発表完了から半世紀過ぎている。
となると、もう著作権保護から外れるのか?

ディズニーの「くまのプーさん」や「(初期)ミッキーマウス」の著作権切れで、
様々な動きが伝えられる。

日本の昭和のマンガやアニメの名作も、これからどんどん著作権切れになっていく。
私が「ジャイアントロボ」の続編を勝手に描いて発表して収入を得ても良いとなる。


蛇足だけど…。

井上雄彦先生の「バガボンド」のファンの友人が、
連載の長期中断でモヤモヤしていて、
(酒席の冗談ではあるが)私に「バガボンド」の続きを描いて、と言ってきた。
大方のベースになっている、吉川英治先生の小説「宮本武蔵」は
とうに著作権切れになっているので、法律的には問題無い。
「バガボンド」のタイトルは使えないとしても。

…でも、
ファンの人達に刺される、おそらく。
Twitter大炎上では済まないね。

現行、デジタル化には諸問題ありながらも、大勢はそちらに移行してしまう。
あくまでも、大事なのは、作家性。
簡単にディテールを詰め込めるデジタルでは、
その作家性が育ち難いのが最も危惧されるところ。


巨匠、萩尾望都先生の天才性について少しお話ししたい。

最大の出世作となった「ポーの一族」、
その1〜3巻に収録された初期作品は、天からの贈り物と言える。
当時、絵の上手さばかり強調される事に、
萩尾先生ご自身が辟易とされておられたようだったけど、
萩尾先生の「絵の上手さ」とは、単に技術的な事や美しさだけではなく、
物語性にある。
1ページ、1コマに、隅々まで、交錯する人物の深い感情が込められ、
前後のドラマを想起させ、読者を物語世界の深奥に引き込む。
なので、「ポーの一族」は見るたびに発見があり、何度読んでも飽きない。

画面に沢山の「情報」を写し込むというのは、そういう事。
ただ全てを緻密に描き込めば良いという事ではない。むしろ、その逆。
余分を省く事で、重要な要素を読者に分かり易く見せる。


デジタルで、気軽に緻密な背景情報を詰め込む事ができるようになって、
それで質の高い「絵」を完成させたと思い込んでしまうのが危ない。


文化も科学も、歴史の中で全て常に過渡期にある。

作者も読者も、過渡期をどう渡るかが問われる。


(この項、完了。)


マンガ原稿制作でデジタル化の1番の弊害は、
緻密で写実的な表現が簡便になって、
そこで描き手も読者も思考停止してしまう事。

密な描き込みで、写真のような画面が、「上手い」絵だとされる見方は
デジタル化以前からあって、
そうした絵の中にも良い作品はあるけれど、
ただがっちり描き込んだ絵が正解だと単純に思い込んでしまうのは誤りで、
人の絵の見方を堅くしてしまう。
描き手からも読者からも、想像力を減退させてしまう。

かつて、市川ジュン先生や竹宮惠子先生が
マンガの描き方についてレクチャーされた時、
画面の中の情報量について言及しておられた。
背景もまた、場面の感情表現の一部であり、
適切な情報をいかに描き入れるか、或いは、余分を省くか。

デジタルでは、そうした思考過程をすっ飛ばし気味になる。


少し話は逸れるが、
デジタル化で緻密な画面作りが出来る分、場面場面が重くなり、
連載がやたらと長期間に伸びる傾向がある。
長期連載がダメなわけでは無いけれど、
マンガ家の負担は大きくなり、
病気等で連載が中断、未完になるケースも増えている。

(続く。)