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マンガ家Mの日常
残り2話分なので、ほぼ終盤なのだけど。

宮崎駿監督が原作のダークな雰囲気を嫌って、主人公をプレティーンに変更し、
元気な子供達の冒険ストーリーに仕上げた。
その試みは良かったと思う。
しかし、その為に不明瞭な部分も生じたような気がする。
原作を知らないので、どこからどこまでが誰の責任範囲なのか、
何とも言いかねるけど。

ストーリーの大半は、
インダストリアの支配層によって拉致されるラナをコナンが救い出す、
その繰り返し。
セリフの8割が「ラナ」「コナン」で済んでるんじゃ無いかとさえ思えてしまう。
インダストリア再建の為に、ラオ博士にエネルギー装置を稼働させようとして、
孫娘のラナを人質に取って、従わせようとする。
ラオ博士は、全住民の為であれば異論は無いけれど、
実質的支配者レプカの個人的な野望の為に使用されるのには反対している。

問題の本質に対して、その前置きとも言えるラナの拉致のエピソードに
やたらと時間を取られている。
コナンとラナがプレティーンの設定になっている事で、社会への関わり方が低い。
その為、ふたりの絡みのアクションで見せ場を作るしか無くなっている。
この点は、主人公をプレティーンにした弊害と言える。

また、崩壊した社会では子供達が将来を夢想する事も出来ず、
コナンもラナも、何がしたいのか、行動に規範が無い。
コナンはハイハーバーの村人達と関わり合ったことで、職業を持つ意識が芽生え、
元住んでいた島の再建を考えるようになった。
でも、無人の島で、何をどうするの?

子供向けのアニメとした為に、設定が端折られたのか、
問題があちこちほったらかしにされてしまってる感は否めない。

基本設定にあるように、ごく僅かな人間しか生き残っていないのだとすれば、
人類存続の為には、生存者を把握して、集結し、社会を立て直すしか道は無い。
チマチマした仲間割れをしている暇は無い。

ジブリ的なキャラクターなのか、
ダイス船長の表現に手間暇が割かれているような気がする。
ストーリーの主軸には無関係の立場なので、ダイスがいなくても話は成立する。
それが、やたらと大袈裟な顔芸が描かれるのは、時々ちょっと鬱陶しく感じる。
40歳過ぎになろうかというダイスが、ラナにこだわりを持つ意味が分かり難い。
極端なロリコンか。結構気持ち悪い。
しかし、原作でコナンやラナが成人年齢であれば、ダイスの恋愛感情にも頷ける。

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