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マンガ家Mの日常
昨日のさくらももこ先生の訃報から、
やはり、国民的アニメという言葉が想起される。

すでにアニメをあまり見なくなっていたので、
TVで「ちびまる子ちゃん」をまともに見た事が無い。
日曜日の放映時間帯はスポーツジムに行っているという事もある。

たまに、ジムを休んだ時等に、たまたまチャンネルが合って、
「ちびまる子ちゃん」の一場面に遭遇する事があった。
でも、何故か、居心地の悪さを感じ、すぐチャンネルを変えてしまう。
日曜日の夕方だから、報道番組にするか、プロ野球にするか。

この居心地の悪さというのが、どこから来るものなのだろう。


当然ながら、作者のさくら先生も、アニメ制作スタッフも、
大半の声優さん達も、皆、大人。
アニメは、大人が期待する子供像であり、大人の縮図に見えて仕方ない。
それは、原作自体が昭和のノスタルジーを描いた作品で、
大人が古き良き時代を振り返って見ている、という性質によるのかもしれない。
大人による虚像の子供社会。
そこが、昭和前半の作品でありながら、時代に寄り添おうと務めた
「サザエさん」との違いかもしれない。

国民的アニメと言えば、代表的なのは
「サザエさん」「ドラえもん」「クレヨンしんちゃん」、
そして「ちびまる子ちゃん」と続く。
これらは庶民の家族生活を描いた作品という点で共通する。
長期大ヒット作としては、サスペンス系で「ルパン3世」「名探偵コナン」、
SFアクション系で「うる星やつら」「ドラゴンボール」等もあるが、
やはり、国民的アニメという名称は、家族ものに相応しい。

年代的に長谷川町子先生はともかく、
藤子不二雄先生、臼井儀人先生、さくらももこ先生と、
皆さん早逝されたのは、仕事の過酷さ故か。


居心地の悪さに話を戻す。

地味な庶民の生活を描いていても、
単行本累計発行部数3,000万部超となれば、
概算でも単行本だけで20億円近い印税収入になる。
キャラクターグッズによる収入はその10倍にはなっているのではなかろうか。

精神的にも自分一人の空間で雑誌やコミックスを読む時には、
そうした雑念が横入りする事も無く、作品世界に集中出来るけど、
TVアニメとなると、制作に大勢が関わっているというだけでも、
作品以外の社会が意識の中に割り込んで来てしまう。


しかし、最大の原因はこの点になるだろう。
「ちびまる子ちゃん」に限らない。
こうあるべきという幸せな庶民の家族生活が、TV画面で大々的に主張されている。
まる子もサザエものび太もしんのすけも、庶民という社会階級に留まり続ける。
TVのこちら側にいる私達もそこにいるよう無言の圧力をかけて来る。
向上心も夢も、手に届かないものとして、庶民の檻に閉じ込められる。

それが息苦しい。
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