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マンガ家Mの日常

俊英グザヴィエ・ドランが、監督、脚本、主演、編集、衣装、等々をこなした、
ベネチア国際映画賞国際批評家賞受賞の実験的映画。


トムは恋人ギョームの葬儀に出席する為、ギョームの実家の農場にやって来る。
母親アガットと長男フランシスの二人で運営されていた。
アガットは次男がゲイだとは知らず、
フランシスはトムに親友のふりをさせ、偽のガールフレンドまで想定させる。

葬儀の後、帰るつもりだったが、アガットはトムに執着し、
フランシスはトムの車を壊して、引き留めようとする。
バス等の交通機関もあり、帰れない訳ではなかったが、
フランシスの暴力と不思議なカリスマ性に惹きつけられたかのように、
トムがズルズルと長居してしまう。

助けが欲しくなり、友人のサラにギョームの恋人役を頼んで来てもらう。
サラは挨拶程度済ませたところで農場を出ようとする。
引き留めようとするトムに、
ギョームが実はトム以外の男女とも付き合っていた不実な男だったと告げる。

トムは、バーのマスターから、数年前の出来事を知らされる。
フランシスは、ギョームがゲイだという事をからかった若い男に憤慨し、
男の口を素手で引き裂いたのだった。
恐怖を覚えたトムは、フランシスのトラックを奪って農場を去る。


製作当時、24、5歳だったという年齢を思えば、名作なんだろうけど、
フツーの映画ファンとしては、やや退屈な感じがした。
映画というより、舞台劇に近い。
と、思ったら、やっぱり、戯曲の映画化だった。
分かり易く表現出来る事を敢えて描かず、
その後の場面を描写する事で知らせる手法が度々使われる。
セリフで展開していく心理劇。


まぁ良いんだけど、そういう回りくどい手法に、果たしてどこまで価値があるのか?
舞台劇ならばそうする必然性があるけれど、
わざわざ映画にするんだから、そこは映画的表現で描写するもんではなかろうか。

カナダの映画だからなのか、ドランの好みなのか、
表現に、北欧の映画がイメージされた。

フランシスが母親に、ギョームがゲイである事を知らせないようにしているのは、
母親の精神的安寧の為ではあろうけど、
母親を老人ホームにやって、農場を売り払いたいと言っている事から、
必ずしも、愛情ゆえとも思われない。
フランシスが守りたかったのは、むしろギョームの方で、
ギョームの代わりに現れたかのようなトムに固執し、支配しようとする姿からは、
実弟との性的関係性も匂わせる。

サラが来た辺りから、農場の周囲の光景が画面に現れ、
決して、野中の一軒家ではなく、ごく近所に他の農家があり、
すぐ近くをバスが通っている事も分かる。
こうした描写は、トム自身の意識に同期しているとも取れる。

ラストでは、自らもゲイである事をカミングアウトしているミュージシャン、
ルーファス・ウェインライトの「Going to a town 」がBGMとして流れ、
何故か、フランシスは「America」と大きく背中に書かれたジャケットを着ている。
フランシスと農場は、ゲイを取り巻くアメリカ社会の象徴。
農場からの脱出は、アメリカからの脱出とイコールする。
カナダが舞台の映画なんで、アメリカって表現もいささかチグハグなんだけど、
要は、ゲイに対する不寛容からの脱出がテーマなんだろうか。

ラストでトムが立ち寄ったガソリンスタンドで、
一瞬、フランシスと思われる男の姿がインサートされる。
スタンドのどこにいるのかも分かり辛く、現実の姿かどうかも微妙な見せ方。
恐怖と支配はどこまでも追って来るという事なのか。

元の戯曲の背景とかが分かると、もっと色々納得出来るんだろうけどね。
なかなかそこまでやる気になれるかどうか。

他の方の批評を少し見てみたけど、
家具の配置とかにまで色々意味があるらしいとか。
でも、そんなの、フツーは分からん。
こうなると、完全、マニア向け。

この内容で上映時間103分は長い。
80分くらいでコンパクトにまとめてくれたら良かった。
「Mommy」はもっと長い。
見るのに躊躇する...。


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