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マンガ家Mの日常
重い話。
先日、大きく報道されていたある事件の判決が出た。
人の生死が関わる問題で、誰にとっても苦しく、難しい問題だったと思う。

人は罪を犯したら、何らかの償いをすべきである。
その点については世界共通で、特に異論は無かろうと思われる。

そして、罪を犯した人は許されるのかどうか。

償いを完了させて許されるケースもある。

しかし、そうならないケースもある。

様々な事件が起きた時、TVのニュースを見ていると、街頭インタヴューで
「許せませんね。」と語る人が画面に映される。
当事者でない人は「許す。」「許さない。」を口にする立場には
無いように思うのだが。
でも、事件の内容によっては、つい「許せない。」と口に付いて出る。
そういうひどい犯罪はあるべきではないという思いか。

アーミッシュの人達のドキュメンタリー等を見ると、
彼らは身内を殺されても、加害者を積極的に許す。
出来る事ではない。
でも、宗教上の固い信念がそのように彼らを導くのだろう。
「許す。」とはどういう事なのか、考えさせられた。

自分が何らかの被害者の立場に立たされると、
まず、加害者をそう簡単には許せない。
そして、加害者になる人は何らかの加害の意図があってやっているので、
問題の後もそう簡単には引き下がろうとしない。
タチが悪い。 加害者とはそういうものだ、残念ながら。
そう、だから許せない。
この事は自分の経験から語れる。

ある編集者の問題行動の為に、仕事を奪われる等の重大な被害を受け、
結局その出版社で仕事が出来なくなってしまった。
相手の対応と問題の大きさを考えて、長い熟慮の後、裁判に踏み切った。
非常に厳しい決断の繰り返しで、本当に辛い日々だった。

結果から言うと、一通りこちらの言い分が認められ、勝ちを収める事が出来た。
ただ、加害者側は裁判中も嘘に嘘を重ね、誹謗中傷を続けた。
大の大人がどうして反社会的な、卑劣な言動を繰り返せるのか、理解に苦しんだ。
手続き上での賠償等はなされたが、加害者からの真の謝罪は得られなかった。
人として完全に終わっている。

償いがあって、慰謝がなされ、その先に「許し」がある。

しかし、例えば、殺人事件等の場合、
本来慰謝されるべき人は死んでしまって、この世にいない。
慰謝は永遠になされる事は無い。
代わって遺族が慰謝を受けるのが現行法で定められている。
でも、例えば、親友を奪われた場合は?
友人の立場では慰謝は求められない。

厳罰化が進んでいるのでは、とも言われている。
その心理はどこから来るのか、考えた。

やはり、被害者側に対して、十分な慰謝がなされない事ではないだろうか。

詐欺や盗難であれば、金銭的賠償で多くの場合解決する。
でも、お金だけではどうにもならない事件もあるし、
そのお金でさえ十分な額が支払われる事はまず無い。

日本に限らないのかもしれないけど、
被害者に対しての慰謝について、まだ深い検討が進んでいないように思われる。
慰謝の形はどうあるべきか、
どうすれば人は慰謝され得るのか。

冒頭の事件の場合、被害者家族は慰謝される望みではなく、
社会的な正義がなされる事に思いを込めたようだ。
私自身のケースでも、その点は深く考えた。
実践、実現は困難だけど。


償いと慰謝が成立すれば、殺人を犯した者も許されるのか。

何処に行けば答えが見つかるのだろう。
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