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マンガ家Mの日常
本文中はイニシャルで表示されていた編集さん達。
後書きで本名が出てるから、イニシャルにする意味があったのか何だか。

Yさんは誰だかすぐに分かった。
長年、萩尾先生に寄り添った、名物的な編集さん。
「プチフラワー」の初代編集長で、
それこそ、Yさんが萩尾先生の為に立ち上げた雑誌だった。

どうしても萩尾先生の作品が掲載されている雑誌でデビューしたくて、
持ち込みを続けていたので、何度かY編集長にもお目にかかった事がある。
気さくで、ズケズケものを言う人だった。
何とかデビューさせてもらえたけど、直後に隔月刊になって、
定期的に掲載されるのは無理そうで、年間通しての原稿料は見込めず、
生活が出来ないのも困るので、
当時発行されて間もなくて、掲載の余地がありそうなカドカワに切り替えた。

「プチフラワー」でも「ASUKA」でも、新人賞で、
萩尾先生やささやななえこ先生は私の応募作をトップに付けて下さったのに、
竹宮先生だけは点数が辛かった。
タイプが合わないのかもしれなくて、それもまた、
その後竹宮先生の作品に抵抗を感じた原因の一つだったかもしれない。

翻って、竹宮先生もまた、Yさんと作品傾向が合わなくて、嘆いていた。
担当編集者や編集長と、性格や作品のタイプが合わないと、
打ち合わせがスムーズにいかず、作品を会議で押してもらえず、苦戦する。
編集者との相性は、マンガ家にとって重要。

しかしそれよりも、この時の竹宮先生の場合、
Yさんを通じて、萩尾先生との差を感じ取っていたのだろう。
とは言え、編集部で打ち合わせしてる時に、
「Yさんは私の作品が嫌いなんでしょう。」なんて言って、
マジで泣いて騒ぐのも、大人としてどうだかなぁ。
マンガ家として上り調子の頃だったから、ウマの合わない編集者に固執せず、
いっそ出版社を移る選択も出来なくはなかった筈。
(「ASUKA」はまだ無かったけど、「花とゆめ」は創刊されていた。
 「花とゆめ」なら竹宮先生の路線に合うだろう。
 ただ、老舗の小学館から白泉社では、都落ち的に思えたかもしれない。)

とにかく、竹宮先生は、萩尾先生やYさんに気に入られる事が重要だった。
その心境を半分理解出来るし、半分理解出来ない。
学級カーストで、憧れのグループに入れないような感覚だろうか。
私自身はマンガ家としてギリギリだったので、仕事にしがみつくのが優先で、
憧れの人にこだわり続ける余裕は無かった。
友人関係でも、相手と合わない空気を感じ取ったら、去る癖が身についた。
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