その後も本は売れに売れているようで、
「萩尾望都と竹宮惠子」という解説本まで出版されているらしい。
ネットニュースでざっくり見ただけなので、詳細は知らないけど。
ネットニュースでは、AERAの記事の中で、その解説本が紹介されていた。
解説本と、AERAの記者の方の感想が入り混じっていて、
どちらの方の主張なのかがよく分からないのだけど。
記者さんは、萩尾先生が「残酷な神が支配する」について、
どうしてあんなに長々描くのだろうと感じていた。
ところが、今回の解説本を読んで、
「残酷な神」は「風と木の詩」の少年愛に対する批判なのだと得心したそうだ。
ん?
「風と木の詩」連載当時、「週刊少女コミック」「プチフラワー」等で
同時に萩尾先生の作品が掲載されていたので、
どう防いでも、名前やタイトルは目に入るだろうし、
周囲から少しは話も漏れ聞こえたかもしれない。
でも、萩尾先生が萩尾先生自身の言葉で語った「大泉」を信じる限り、
萩尾先生は竹宮先生との関わりを一切絶って、作品も読んでいない。
(贈られた「ジルベール」の、封さえ切らなかった程。)
大泉時代に竹宮先生が冒頭部分を短編として仕上げた、
ごく初期の部分は読んだとしても、
それだけで、他人の著作を批判するような姿勢をとるだろうか?
竹宮先生の領域に入らないと心に誓っていたのに、
敢えて同じテーマに裏側から入り込むような事をするだろうか?
解説本と記事では、
大泉時代、萩尾先生が、少年愛に関心が無いのに、
竹宮先生や増山さんに合わせる形で、少年愛的な作品を描いたようになっているが、
それも、萩尾先生の言葉を信じるなら、間違った見方だと言える。
本人が気づかないうちに影響を受けていた可能性はあるとしても、
他人におもねる形で作品を描くような萩尾先生ではない。
作品にどれだけ心血を注いでおられるか、考えれば答えは直ぐに出る。
「残酷な神」については、
連載当時、知人が萩尾先生から直接伺ったところによると、
家庭内、世代間での虐待がテーマで、
ただ、被害者を少女にすると、あまりにも重苦しくなり過ぎるので、
少年を主人公にした、との事。
「残酷な神」のテーマは少年愛の問題が主体ではない。
(「風と木」的な少年愛の世界観に興味は無いって、言ってるじゃん。
マンガの原稿描くのって、ホントに命削られる作業だから、
興味の無い事について、何年も連載を描き続けてはいられないよ。)
仮に「風と木の詩」と「残酷な神」を読み比べて批評するにしても、
連載された時期が違うので、
その間にLGBTQに関する社会の認識はどんどん変化して行っていたし、
作家としてもお二方とも絶えず成長されており、
後から描かれた作品の方が進歩しているのは当然で、
それを一つの枠で断定するのは、良い解説の作法だとは思えない。
萩尾先生と竹宮先生が違う作家であるように、
ジェルミ(「残酷な神」の主人公)とジルベールも違うキャラクターだから、
違うテーマ、違う価値観で、
違うストーリー展開、違うエンディングに帰結する。
記事を読む限り、解説本の作者と記者は萩尾先生の熱心なフォロワーで、
萩尾先生寄りの立場らしい。
作品から深層心理を探求するのが解説の役目なんだけど、
今回はかなり勇み足だったんじゃないかな。
萩尾先生と竹宮先生の対立構図を作って、煽りたいのかな。
それをやめてくれっていうのが「大泉」の主張なのにね。
「萩尾望都と竹宮惠子」という解説本まで出版されているらしい。
ネットニュースでざっくり見ただけなので、詳細は知らないけど。
ネットニュースでは、AERAの記事の中で、その解説本が紹介されていた。
解説本と、AERAの記者の方の感想が入り混じっていて、
どちらの方の主張なのかがよく分からないのだけど。
記者さんは、萩尾先生が「残酷な神が支配する」について、
どうしてあんなに長々描くのだろうと感じていた。
ところが、今回の解説本を読んで、
「残酷な神」は「風と木の詩」の少年愛に対する批判なのだと得心したそうだ。
ん?
「風と木の詩」連載当時、「週刊少女コミック」「プチフラワー」等で
同時に萩尾先生の作品が掲載されていたので、
どう防いでも、名前やタイトルは目に入るだろうし、
周囲から少しは話も漏れ聞こえたかもしれない。
でも、萩尾先生が萩尾先生自身の言葉で語った「大泉」を信じる限り、
萩尾先生は竹宮先生との関わりを一切絶って、作品も読んでいない。
(贈られた「ジルベール」の、封さえ切らなかった程。)
大泉時代に竹宮先生が冒頭部分を短編として仕上げた、
ごく初期の部分は読んだとしても、
それだけで、他人の著作を批判するような姿勢をとるだろうか?
竹宮先生の領域に入らないと心に誓っていたのに、
敢えて同じテーマに裏側から入り込むような事をするだろうか?
解説本と記事では、
大泉時代、萩尾先生が、少年愛に関心が無いのに、
竹宮先生や増山さんに合わせる形で、少年愛的な作品を描いたようになっているが、
それも、萩尾先生の言葉を信じるなら、間違った見方だと言える。
本人が気づかないうちに影響を受けていた可能性はあるとしても、
他人におもねる形で作品を描くような萩尾先生ではない。
作品にどれだけ心血を注いでおられるか、考えれば答えは直ぐに出る。
「残酷な神」については、
連載当時、知人が萩尾先生から直接伺ったところによると、
家庭内、世代間での虐待がテーマで、
ただ、被害者を少女にすると、あまりにも重苦しくなり過ぎるので、
少年を主人公にした、との事。
「残酷な神」のテーマは少年愛の問題が主体ではない。
(「風と木」的な少年愛の世界観に興味は無いって、言ってるじゃん。
マンガの原稿描くのって、ホントに命削られる作業だから、
興味の無い事について、何年も連載を描き続けてはいられないよ。)
仮に「風と木の詩」と「残酷な神」を読み比べて批評するにしても、
連載された時期が違うので、
その間にLGBTQに関する社会の認識はどんどん変化して行っていたし、
作家としてもお二方とも絶えず成長されており、
後から描かれた作品の方が進歩しているのは当然で、
それを一つの枠で断定するのは、良い解説の作法だとは思えない。
萩尾先生と竹宮先生が違う作家であるように、
ジェルミ(「残酷な神」の主人公)とジルベールも違うキャラクターだから、
違うテーマ、違う価値観で、
違うストーリー展開、違うエンディングに帰結する。
記事を読む限り、解説本の作者と記者は萩尾先生の熱心なフォロワーで、
萩尾先生寄りの立場らしい。
作品から深層心理を探求するのが解説の役目なんだけど、
今回はかなり勇み足だったんじゃないかな。
萩尾先生と竹宮先生の対立構図を作って、煽りたいのかな。
それをやめてくれっていうのが「大泉」の主張なのにね。
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