わかりやすく物事の解決に導くのも良い映画であるが、
わかりにくい部分を残して、観客の思考を導くのも良い映画。
その点で、今作は、あり過ぎる程に語る余地がある。
ネットで検索すると、
モデルになった指揮者がいて、元は男性が主人公の予定だった。
しかし、男性俳優を見回したところ、
カリスマ性と傲慢さを表現し得る孤高の存在に行き着かず、
ケイト・ブランシェットに白羽の矢が立ち、女性へと設定変更された。
主人公が男性だったら、セクハラの構図はもっと単純に見えたかもしれない。
あるブログによると、
ターのセクハラで放逐されたクリスタと思われる女性の姿が
画面のあちこちに現れていると。
それは余程意識して見ないとわからないし、
序盤で確かにそれらしきシーンを見かけたが、その時は考えようも無い。
クリスタはターのアプローチをはねつけたようでありながら、
実はクリスタの方がターに執心していたのかもしれない。
そうなると、ターのキャラクターは更に複雑になる。
更にネットで検索すると、最初からクリスタとフランチェスカは共謀して
ターのセクハラを公表しようとしていたという解釈もあって、
場面を思い起こすと成る程と思わされる。
例えばピアニストであれば、演奏会に拘らなければ、
ホテルのラウンジやバー等、個人で仕事を見つける事も可能だけど、
指揮者は楽団ありき。
そこに職業としての難しさがある。
結果、地の果てのようなフィリピンまで行くしかなかったのか。
ターは、セバスチャンを解雇する時、
「指揮者の家は指揮台だ。」と語っている。
その通り、ターは指揮台にいられさえすれば、場所は問わないのか。
ラストのフィリピンでのシーンは、ターの幻想だとする解釈もあって、
それも観客の判断に委ねられている。困ったね。
映画は冒頭、長々しいエンドロールから始まる。
その意味がわからないのだけど、
どうやらラストの「モンスターハンター」と関連があるらしい。
「モンハン」やった事がある人ならわかるのかな。
これについても、改めてネットで検索してみました。
流石と思われるわかりやすい解説があったので、後日紹介します。
(続く。)
わかりにくい部分を残して、観客の思考を導くのも良い映画。
その点で、今作は、あり過ぎる程に語る余地がある。
ネットで検索すると、
モデルになった指揮者がいて、元は男性が主人公の予定だった。
しかし、男性俳優を見回したところ、
カリスマ性と傲慢さを表現し得る孤高の存在に行き着かず、
ケイト・ブランシェットに白羽の矢が立ち、女性へと設定変更された。
主人公が男性だったら、セクハラの構図はもっと単純に見えたかもしれない。
あるブログによると、
ターのセクハラで放逐されたクリスタと思われる女性の姿が
画面のあちこちに現れていると。
それは余程意識して見ないとわからないし、
序盤で確かにそれらしきシーンを見かけたが、その時は考えようも無い。
クリスタはターのアプローチをはねつけたようでありながら、
実はクリスタの方がターに執心していたのかもしれない。
そうなると、ターのキャラクターは更に複雑になる。
更にネットで検索すると、最初からクリスタとフランチェスカは共謀して
ターのセクハラを公表しようとしていたという解釈もあって、
場面を思い起こすと成る程と思わされる。
例えばピアニストであれば、演奏会に拘らなければ、
ホテルのラウンジやバー等、個人で仕事を見つける事も可能だけど、
指揮者は楽団ありき。
そこに職業としての難しさがある。
結果、地の果てのようなフィリピンまで行くしかなかったのか。
ターは、セバスチャンを解雇する時、
「指揮者の家は指揮台だ。」と語っている。
その通り、ターは指揮台にいられさえすれば、場所は問わないのか。
ラストのフィリピンでのシーンは、ターの幻想だとする解釈もあって、
それも観客の判断に委ねられている。困ったね。
映画は冒頭、長々しいエンドロールから始まる。
その意味がわからないのだけど、
どうやらラストの「モンスターハンター」と関連があるらしい。
「モンハン」やった事がある人ならわかるのかな。
これについても、改めてネットで検索してみました。
流石と思われるわかりやすい解説があったので、後日紹介します。
(続く。)
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