録画したままになっていた映画を引っ張り出して見る。
内容を知らずに見ると唖然とする事も多いけど、それもまた楽しからずや。
鬼才と常に形容されるケン・ラッセル監督作品。
原作は「チャタレイ夫人の恋人」で知られるD・H・ローレンスの長編小説。
映画の公開は1989年となっていて、既に画面に古めかしさを感じる。
ケン・ラッセルの作風でもあり、敢えてそう見せているのか?
20世紀初頭、英国は第一次世界大戦に巻き込まれつつある頃。
ロンドン郊外の田舎町で暮らす快活な娘アーシュラは、
父親が示す古い価値観に収まりきらず、奔放な性体験をしてみたり、
独身のまま教師の道を選んだりする。
挫折にも見舞われるが、自宅から見える山裾の虹に触発され、
新しい世界へ踏み出す勇気を得る。
と、何となくまとめてしまいました。
田舎町の退屈な一家の話からスタートするから、
一体何がどう面白くなっていくのか困ってしまっていたけど、
アーシュラが高校で体育の女性教師インガーと知り合い、
レズビアン関係になる辺りから一気に話が動きだす。びっくり。
え、「レインボウ」ってそういう意味だったの?
...って、そういう訳じゃ無いけどね。
インガーの友人の画家から、フルヌードのモデルを依頼されて受けたら、
その画家からSMプレイを求められる。それは拒否するけど。
臨時教師として雇われた小学校では校長にセクハラされるし、
叔父とインガーの結婚式の最中に屋敷の寝室で恋人と初体験しちゃうし。
まぁ、でも、そういう経験はただのポルノ描写としてあるのではなく、
女性が解放される事で、古い価値観から脱却していく過程を示唆している。
小説でも映画でも、アーシュラは今時の女性よりも進歩的、現代的に映る。
善人だけど、どこか気弱で物足りない父親については
人格形成の背景がもっと分かると良いかもしれない。
人生の希望、未来、夢としての象徴である虹の他に、
兎、馬、月、等が象徴的に映し出される。
正確な意味合いについてはケン・ラッセルの作品をもっと掘り下げて見ないと
何とも言えないけど、大体は一般的なイメージ通りの解釈で良いのかな。
ケン・ラッセル監督作品は一時期よく見る機会があったけど、
他界して、暫く名前が聞かれなくなっていた。
改めて作品のタイトルを見ると、挑戦的な作品が並んでいる。
強烈な作家性を振りまいた監督だった。
最近こういうタイプは少なくなってしまったように感じるのは、
メジャーとアンダーグラウンドの住み分けが二極化され過ぎてしまったせいか。
内容を知らずに見ると唖然とする事も多いけど、それもまた楽しからずや。
鬼才と常に形容されるケン・ラッセル監督作品。
原作は「チャタレイ夫人の恋人」で知られるD・H・ローレンスの長編小説。
映画の公開は1989年となっていて、既に画面に古めかしさを感じる。
ケン・ラッセルの作風でもあり、敢えてそう見せているのか?
20世紀初頭、英国は第一次世界大戦に巻き込まれつつある頃。
ロンドン郊外の田舎町で暮らす快活な娘アーシュラは、
父親が示す古い価値観に収まりきらず、奔放な性体験をしてみたり、
独身のまま教師の道を選んだりする。
挫折にも見舞われるが、自宅から見える山裾の虹に触発され、
新しい世界へ踏み出す勇気を得る。
と、何となくまとめてしまいました。
田舎町の退屈な一家の話からスタートするから、
一体何がどう面白くなっていくのか困ってしまっていたけど、
アーシュラが高校で体育の女性教師インガーと知り合い、
レズビアン関係になる辺りから一気に話が動きだす。びっくり。
え、「レインボウ」ってそういう意味だったの?
...って、そういう訳じゃ無いけどね。
インガーの友人の画家から、フルヌードのモデルを依頼されて受けたら、
その画家からSMプレイを求められる。それは拒否するけど。
臨時教師として雇われた小学校では校長にセクハラされるし、
叔父とインガーの結婚式の最中に屋敷の寝室で恋人と初体験しちゃうし。
まぁ、でも、そういう経験はただのポルノ描写としてあるのではなく、
女性が解放される事で、古い価値観から脱却していく過程を示唆している。
小説でも映画でも、アーシュラは今時の女性よりも進歩的、現代的に映る。
善人だけど、どこか気弱で物足りない父親については
人格形成の背景がもっと分かると良いかもしれない。
人生の希望、未来、夢としての象徴である虹の他に、
兎、馬、月、等が象徴的に映し出される。
正確な意味合いについてはケン・ラッセルの作品をもっと掘り下げて見ないと
何とも言えないけど、大体は一般的なイメージ通りの解釈で良いのかな。
ケン・ラッセル監督作品は一時期よく見る機会があったけど、
他界して、暫く名前が聞かれなくなっていた。
改めて作品のタイトルを見ると、挑戦的な作品が並んでいる。
強烈な作家性を振りまいた監督だった。
最近こういうタイプは少なくなってしまったように感じるのは、
メジャーとアンダーグラウンドの住み分けが二極化され過ぎてしまったせいか。
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