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マンガ家Mの日常
話題作だったので、頑張って見てみた。


ハイデッガーの下で哲学を学んだ思想家ハンナ・アーレントは
ドイツ系ユダヤ人だった為、ナチス政権下で抑留され、アメリカに亡命した。
1960年、南米に潜伏していたアイヒマンが捉えられ、
イスラエルでナチス戦犯として裁かれる。
ハンナは雑誌社の要請で、裁判を傍聴し記事を書く事になった。

帰国後記事を執筆し、「思考不能に陥った悪の凡庸さ」とアイヒマンを定義付け、
同じ記事の中で、当時のユダヤ人指導者の同胞に対しての責任問題にも触れた為、
激しい攻撃と避難を受け、友人の多くも失う。
ハンナは大学から教授職を辞職するよう求められるが、断固として断り、
支持してくれる学生達に向けて、記事についての講義を行った。


文学的というよりは、学術的映画。
夫や友人との繋がり等は描かれているものの、エンターテインメントの要素は皆無。
アイヒマンに関するハンナの考察の講義の短縮版とも言える作品。
アイヒマンについてはともかく、
ユダヤ人指導者の行為については勉強不足で知識が全く無かったので、
映画の中で幾らかでも説明が欲しかった。
それについて語られている映画等をみた事が無い。
かなりデリケートな問題なのだろう。

学生の頃はこういう作品も頑張って見ていたような気がする。
正直、面白くはないが、たまにはこういう作品も見るべきかもしれない。

マンガの仕事をしていると、
編集さんから、私の作品は難し過ぎると指摘される事が多い。
マンガは子供向けのエンターテインメントではあるけれど、
大人向けの雑誌も多く出ているので、
雑誌によっては読者に一定の理解力は要求しても良いのではないかとも思う。
でも、まず受け入れられない。

多くを理解し、知識を深めたいと望む読者もいると思うのだけど、
固定客の大半は緩やかな楽しみを求めてマンガ雑誌を手に取る訳なので、
そウいう多数派に向けて描く事を要求される。
結果、そういう作品しか発表されなくなる。
それはマンガ表現の枠を狭める事態に繋がる。
出版社も読者も、マンガを
もっと文化としての大きな枠組みで捉えてはもらえないものだろうか。
気晴らしに楽しめる一過性の娯楽作品にも価値はあるが、
長く、深く心に残る作品の存在意義にも目を向けてもらいたい。

今作のような映画に触れる度、マンガに対して、
映画の多様性と文化的成熟度を知らされる。

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