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マンガ家Mの日常
「許されざる者」「ミリオンダラー・ベイビー」等々、
重厚な作品がメインだったイーストウッド監督も、
前作の「運び屋」や今作に至っては、小品に切り替えた印象。
やはり、年齢的に大作はキツくなって来たのか。
勿論、これまでに十分な名作の数々を提供してくれているので、
鑑賞者として何も文句は無いが、
ウディ・アレン同様、引退の2文字が迫っている。

前回書いたように、
イーストウッド自身、派手な女性遍歴で、
パートナーや子供達を捨てて、辛い思いを強いた過去があり、
それは「運び屋」の時にも話題にされた。
ただ、2作とも、疎遠になった家族関係を描きながらも、
イーストウッド自身の悔恨等が感じられるような出来ではなく、
その分、半生の色が見られないようなのが、何とも言い難い。

両親に捨てられた13歳の少年ラフォが、
路上で強く生きる為に「マッチョ」である事を意識し、
相棒の闘鶏にも「マッチョ」と名付けた。
しかし、既に「マッチョ」な人生を通り過ぎたマイクは、
「マッチョ」である事の無意味さを語る。

何だろうね。

例えば、女性に置き換えるとすると、
若い頃は美貌を磨き、美貌故に散々得をして、楽しい人生を送り、
でも、老いて美貌が衰えると、
「美貌になんて意味は無い。賢くある方が大事。」って言ってるようなもの?

マイクは、自分自身の人生の後悔を語っているようで、
ラフォの為であるというようには感じられない。

ネットで他の方々の記事を参考にすると、
イーストウッドは「マッチョ」な作品でスター街道をひた走って来ながら、
現在のハリウッドのLGBTQ的な流れに合わせて、
自らの映画人生をまとめようとしているのではないかと。

13歳と91歳のギャップはあまりにも大きい。
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