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マンガ家Mの日常
「盗作」について、以前このブログでも少し書いた事がある。
明快な線引きは難しい。
インスパイアなんて聞こえの良さそうな言葉は気持ちが悪い。
真似されても、本人がOKな場合と、そうでない場合があるだろう。
逆に、真似した方は、
プライドが傷ついたら、作家で、
何も傷つかなければ、ただの商売人。

それにしても、「盗作」という言葉の響きが重い。
萩尾先生の件は、仮に噂を流した側の言い分が真実だとしても、
「盗作」とまでは言えない。
ただ、萩尾先生の言い分にも、ちょっと疑問を感じる。


増山さんが少年愛について頻繁に語るのを、
萩尾先生は「おまじないのよう」と揶揄していた。
それでも、何らかの影響は受けていた感じがするし、
様々な形で増山さんに世話になっていたのだから、
もう少しソフトな表現を選択出来なかったのだろうか。

まず、「トーマの心臓」の原型とも言える「11月のギムナジウム」が描かれた。
その段階では、目立ったトラブルは無かったと萩尾先生は受け止めている。
ところが、その後、「小鳥の巣」「トーマの心臓」と、
続けて、男子校寄宿舎を舞台にした作品が発表され、
竹宮先生と増山さんは危機感を覚えた。
「風と木の詩」もしくは「ヴィレンツ物語」で描こうとしていた世界に近く、
それらの作品を世に出した時のインパクトが弱まる可能性がある。


萩尾先生は「大泉」の中で、新撰組を例に挙げて持論を展開している。

過去、様々な形で新撰組が無数に作品化されている。
同じ新撰組であっても、描き方やテーマが違えば、それは違う作品なのである。
なので、男子校寄宿舎を舞台にしても、テーマが違う以上、
竹宮先生や増山さんのアイデアの「盗作」ではない。

それは正論。

もう一つ、言い分として、
少年を主人公にして、男子校寄宿舎を舞台に選んだのは、
小説や映画等、他の源泉が多数あるとの事。

ただ、新撰組のように小説や映画で長い歴史があるものとでは、
事情が異なるような気がする。
黎明期の少女マンガ界では、主人公はほぼ少女で、
少年を主人公に据えた作品は少なかった。
そんな中で、舞台を男子校寄宿舎にするのは、
アイデアとしてはかなり限定的な印象がある。

例えば、
同じ雑誌で、誰かが水泳を題材に描いていたとする。
その場合、それが100m自由形だとして、
もし次の人が400m個人メドレーの作品を出したらどうだろうか。
水泳ほどメジャーな競技ならまだしも、例えば、水球だったらどうだろうか。
片方は少年愛を描き、もう片方は友情を描いたとして、
それでも、水球という限定的な世界が重なって見えてしまう。

少年誌では時々野球マンガが2、3作掲載されている事があるけれど、
それは野球という超メジャーな題材だからギリギリセーフなわけで、
それ以外の場合、おそらく編集部が後発にGOサインは出さない。

今ほど多数の雑誌が刊行されていれば問題にならなかっただろうが。


竹宮先生や増山さんの「アイデア」を「情報」として消化し、再構築した。
それが萩尾先生の強みであるのかもしれないけれど。


竹宮先生は「風と木の詩」の中で、ストレートに性愛を表現した。
萩尾先生の「小鳥の巣」や「トーマの心臓」では、
性行為そのものは描かれていないが、恋愛感情やキスシーンは挟まれており、
更には、行為を超越した深い感情のせめぎ合いが描かれている。
そうした秘めた表現に、読者はより想像力を刺激された。
マニアな読者や評論家達はそこに魅了し続けさせられる。
年月を経るに連れて、軍配は定まった。

(続く。)
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