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マンガ家Mの日常
ネットニュースで訃報に接しました。
69歳、肺癌。



デビュー前の2年弱、
専属アシスタントをしていました。



正直、

アシスタントからすると、

酷い仕事場でした。



後日、少し書きます。



今夜は、お悔やみを申し上げます。
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ギャグタッチの絵柄で描いた「風雲児たち」の大ヒットが記憶に残る、
みなもと太郎先生が肺がん闘病後の心不全で亡くなられました。
ご冥福をお祈りします。

まだ74歳という年齢。
肺がんは煙草のせいだろうか。
篭りきりの仕事風景が目に浮かぶよう。

ゆっくりお休み下さい。

その後も本は売れに売れているようで、
「萩尾望都と竹宮惠子」という解説本まで出版されているらしい。
ネットニュースでざっくり見ただけなので、詳細は知らないけど。

ネットニュースでは、AERAの記事の中で、その解説本が紹介されていた。
解説本と、AERAの記者の方の感想が入り混じっていて、
どちらの方の主張なのかがよく分からないのだけど。

記者さんは、萩尾先生が「残酷な神が支配する」について、
どうしてあんなに長々描くのだろうと感じていた。
ところが、今回の解説本を読んで、
「残酷な神」は「風と木の詩」の少年愛に対する批判なのだと得心したそうだ。


ん?


「風と木の詩」連載当時、「週刊少女コミック」「プチフラワー」等で
同時に萩尾先生の作品が掲載されていたので、
どう防いでも、名前やタイトルは目に入るだろうし、
周囲から少しは話も漏れ聞こえたかもしれない。
でも、萩尾先生が萩尾先生自身の言葉で語った「大泉」を信じる限り、
萩尾先生は竹宮先生との関わりを一切絶って、作品も読んでいない。
(贈られた「ジルベール」の、封さえ切らなかった程。)
大泉時代に竹宮先生が冒頭部分を短編として仕上げた、
ごく初期の部分は読んだとしても、
それだけで、他人の著作を批判するような姿勢をとるだろうか?
竹宮先生の領域に入らないと心に誓っていたのに、
敢えて同じテーマに裏側から入り込むような事をするだろうか?

解説本と記事では、
大泉時代、萩尾先生が、少年愛に関心が無いのに、
竹宮先生や増山さんに合わせる形で、少年愛的な作品を描いたようになっているが、
それも、萩尾先生の言葉を信じるなら、間違った見方だと言える。
本人が気づかないうちに影響を受けていた可能性はあるとしても、
他人におもねる形で作品を描くような萩尾先生ではない。
作品にどれだけ心血を注いでおられるか、考えれば答えは直ぐに出る。


「残酷な神」については、
連載当時、知人が萩尾先生から直接伺ったところによると、
家庭内、世代間での虐待がテーマで、
ただ、被害者を少女にすると、あまりにも重苦しくなり過ぎるので、
少年を主人公にした、との事。
「残酷な神」のテーマは少年愛の問題が主体ではない。
(「風と木」的な少年愛の世界観に興味は無いって、言ってるじゃん。
  マンガの原稿描くのって、ホントに命削られる作業だから、
  興味の無い事について、何年も連載を描き続けてはいられないよ。)


仮に「風と木の詩」と「残酷な神」を読み比べて批評するにしても、
連載された時期が違うので、
その間にLGBTQに関する社会の認識はどんどん変化して行っていたし、
作家としてもお二方とも絶えず成長されており、
後から描かれた作品の方が進歩しているのは当然で、
それを一つの枠で断定するのは、良い解説の作法だとは思えない。

萩尾先生と竹宮先生が違う作家であるように、
ジェルミ(「残酷な神」の主人公)とジルベールも違うキャラクターだから、
違うテーマ、違う価値観で、
違うストーリー展開、違うエンディングに帰結する。


記事を読む限り、解説本の作者と記者は萩尾先生の熱心なフォロワーで、
萩尾先生寄りの立場らしい。
作品から深層心理を探求するのが解説の役目なんだけど、
今回はかなり勇み足だったんじゃないかな。

萩尾先生と竹宮先生の対立構図を作って、煽りたいのかな。

それをやめてくれっていうのが「大泉」の主張なのにね。


グレタ・トゥーンベリは環境破壊に対する憤りから逃れられず、
環境活動家として大きな行動に繋げた。
アスペルガー症候群の特性を自らの意思で生かした。

萩尾先生は、幼い頃から家族や周囲との軋轢に悩み、
消えない葛藤をマンガの作品として表現した。

アスペルガー症候群を「個性」だと言い切るのは、まだ無理があるような気がする。
一つの事柄に集中して邁進するのは構わないけれど、
無自覚な言動で他者を傷つけるのは、一般的には受け入れられない。


「萩尾が萩尾であるために」
マネージャーの城さんは「ジルベール」を竹宮先生に送り返した。
そうして、萩尾先生が体調を整えて仕事に集中出来るようケアした。

「ジルベール」と「大泉」の2冊を読んだ多くの読者は、
萩尾先生の対応に問題を感じるだろう。
一般的には、批判されても仕方がない。
しかし、この対応が、アスペルガー症候群である萩尾先生の限界点なのだ。


他人の心の中はわからない。
ましてや、レンジが違うアスペルガー症候群の人であれば尚更。

長い年月、相手も葛藤を抱え込み、ようやく謝罪の姿勢を整えた時、
元の出来事の内容にもよるだろうが、
なるべくなら謝罪を受け止めて、相手を赦したいと思う。
そうするのが、自分の側の葛藤をなだめる唯一の方法だから。
(人はなかなか変われないので、多くの場合、和解は上手くいかないけれど。)

萩尾先生の心中はどうなのだろう。
50年前の仕打ちを決して赦さないのだろうか。

いや、赦したくても、アスペルガー症候群故のこだわりが、そうさせてくれない。
苦しみは、ただ「永久凍土に封じ込める」しかない。
(「大泉」の文中のこの表現もまた、「A-A'」を想起させる。)
しかし、それは、帯状疱疹のウイルスのように、ただ眠っているだけで、
いつまた姿を表すかわからない。
忘れようと努めて、忘れられている期間もあるけれど、
永遠にそこにある事を、本人が知っている。
...その葛藤は、また作品作りの原動力に繋がるのだろうか。


才能溢れるマンガ家同士、出会った頃の萩尾先生と竹宮先生は、
お互いの作品をリスペクトし、魅力を感じ合っていた筈。
「出禁文書」や盗作疑惑で、全てが崩壊してしまった。
成功を夢見る血気盛んな若者故の過ちと、他人の目線からはそう言える。
でも、萩尾先生は、決してそのようには片付けられない。


「竹宮先生の「ファラオの墓」「地球へ...」「風と木の詩」面白いよ。
 萩尾先生、絶対好きになるから読んでみて!」
そう言えたら良いのに...。




アスペルガー症候群であっても、そうでなくても、

人は、長い人生で、多くの苦しみ、葛藤、後悔を抱えて、
苦悩しながら生きている。

自らの苦悩に足を掬われる時もありながら、
苦悩で反動するバネが、生きる力になる時もあるに違いない。

(このテーマ、完了。)




後記

医療の専門家でもないのに、書籍を読んだだけで、
相手をアスペルガー症候群だと決めつける事については、
問題視されても仕方ありませんが、私自身としては、
「大泉」で短絡的に萩尾先生を批判するのではなく、
これまでの作品等を交えて、萩尾先生の立場や意識に沿って考えた結論です。

萩尾望都先生は、私の人生を大きく動かした恩人の一人です。
一生、感謝しています。


「メッシュ/苦手な人種」の1シーン。

美人で優等生の姉ポーラは出来損ないの妹ルーを気にかけて、
ルーが入り浸っているロックバーを訪れると、
ルーが憧れている男性ハブがポーラに一目惚れして、ダンスに誘う。
ロックバーに来た事もなかったポーラだが、軽々と踊って注目を集める。

ルー「姉さんはいいわ、美人だからいつだって注目あつめて...ほめられて...」
ポーラ「心配したのに...何を怒ってるの......」(中略)(以下、部分的に抜粋)
   「そんなの怒るのへんよ」
   「そんなこといちいち気にしなきゃいいでしょ神経質に」
           「あなたそれだから好かれないのよ」
   「人の言うことなんか聞きながしてしまえばいいじゃない」
ルー「あたし...聞きながせない......!」
ポーラ「そこがダメなのよ......ルーあなた病気なんじゃないの......?」
   「いやだ...あの子どうして怒ったの?
    まるであたしが悪いことでも言ったみたいだわ......」
メッシュ(言ったんじゃないの)


姉妹は憎み合っているわけではなく、互いに思いやりも持っている。
しかし、感性のレンジのズレが理解を阻み、決して交わらない。
ルーはその後の出来事や周囲の人々との関わり合いを通して成長するが、
ポーラの天然(アスペルガー的な?)は一生変わらない(だろう)。

優等生で良妻賢母の姉や、美人の伊東愛子先生についての表現等から、
萩尾先生は妹ルーの側と思えていたが、
竹宮先生との関係性を見ると、天然の姉ポーラとも共通する。
そして、作家として、冷静な観察者メッシュの立場でもある。
自分自身の内側から複雑な人間性を引きずり出し、
それぞれをキャラクターとして肉付けして、
人と人との軋轢と、自分自身の内側の葛藤を描いた。
マンガ家萩尾望都の真骨頂がここにある。

(続く。)