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マンガ家Mの日常
フランス映画「パリ、嘘つきな恋」のイタリア版リメイク。


大手スポーツシューズメーカー社長のジャンニは49歳独身。
日中は仕事とランニングに勤しみ、
夜は街中で若い美女をナンパしてはお持ち帰りの日々。

疎遠だった母が亡くなり、遺品整理でアパートを訪れる。
母の車椅子に座って音楽を聞いているところに、
新しく引っ越してきた隣人の若い美女アレッシアが挨拶にやって来る。
障害者ケアの仕事をしているアレッシアの気を引く為、
ジャンニは障害者のふりをする。

後日、アレッシアに誘われて実家を訪れるが、
それは、車椅子生活の姉キアラを引き合わせる計らいだった。
交通事故で両足が不自由になったキアラだったが、
交響楽団の首席バイオリニストとして活躍し、
趣味の車椅子テニスでは積極的に試合に参加して、溌剌とプレーしている。

友人の医師や会社の秘書が眉を顰める中、ジャンニは障害者のふりを続け、
悪友達と、キアラを落とせるかどうかの賭けをする。

デートを重ね、互いに惹かれ合い、遂にベッドイン。
しかし、真実を言いそびれたジャンニは、次第に不安になる。
ジャンニの双子の弟がアレッシアと付き合い出し、アレッシアは真実を知り、
ジャンニに詰め寄る。
アレッシアからその事を知らされたキアラだったが、
実は早い段階でジャンニが健常者だと気付いていた。

友人達を交えて、聖地ルルドへのバス旅行に出かけて、
そこで解決出来ないかと探るジャンニだったが、自ら口を開く事は出来ず、
車椅子で道路に出たキアラをトラックから救おうと慌てて走り寄り、
歩ける事が唐突にバレてしまう。
気まずい状態でキアラは別れを告げて去って行く。

反省し、気持ちを入れ替えて、会社でもパラアスリート支援に力を注ぐ。
キアラに謝罪に行くが、受け入れてもらえず、失意の日々。

ある日、闇雲にランニングに励んで、コース途中でへたり込んでいると、
キアラが現れ、無事仲直り。
キアラの実家で、家族や友人に囲まれ、50歳の誕生日パーティーを楽しむ。


(感想は後日。)


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Blu-rayレコーダーを買い替えて、
同じメーカーだったのに、リモコンで1.3倍速視聴のやり方が変わっていて、
取説引っ張り出すのも面倒だったので、試さずにいた。
何かの拍子で、何かを触った際、偶然1.3倍速になって、
できる事はわかったけど、どのボタンかわからず、また使用せず。

録画してあったドキュメンタリー番組を整理していて、
流石に全部をじっくりとは観られないので、1.3倍速を決意。
取説出すのはやっぱり面倒だったので、ネットで検索したら、すぐに回答が出て来た。
これで少しは片付けが早くなる。

早速1.3倍速で観たところ、
あの気持ち悪かった濱田岳のナレーションが、いくらかスッキリ聞こえる。
これなら苦痛ではないかも。

SNSで見ると、
やはり濱田岳のナレーションが嫌だという意見があった。
1.3倍速で観ると良いよと教えてあげたい。

アガサ・クリスティの「名探偵ポアロ」のドラマシリーズの再放送を観ている。
多分、昔幾らかは観ていた筈なんだけど、ほぼ忘れているから、新鮮に楽しめる。

昨夜の放送は「葬儀のあとで」。

軽くネタバレすると、

大富豪が亡くなり、親戚達が遺産を分配相続。
ところが、妹である老婦人が殺害され…。

犯人は老婦人のコンパニオンで、老婦人がその価値を知らずに所有していた、
レンブラントの肖像画を狙っていた。

このコンパニオンは、老婦人殺害の動機をゴマカすべく、
兄である大富豪の遺産相続に目を向けさせるよう画策。
そこがクリスティの発想の凄いところ。

で、問題が1つ。

原作の出版は1950年代で、
作品の時代設定は1930年代とされている。
この時代の英国の現金のレートがよくわからないのだけど、
ドラマの中で、レンブラントの作品がおよそ5000ポンドとされていた。

えっ?

今、ネットで検索してみたら、
当時のレートで1ポンド24,300円くらいとかって。
また、1920年代から急激な円安が進行したそうなので、何とも言い難いのだけど、
1930年代のレートでザックリ計算すると、
5000ポンドは1億2000万円ちょいになる。
1920年代だったら、その半額くらいかも。

1億2000万円だったら、犯罪を実行しようという気にもなるかもしれない。

でも!

レンブラントの真作だったら、
たったの1億2000万円って事は無い!
今なら、競売にかけられたら、30〜50億円の値がつくだろう。
長く世に出ていなかった作品となると、もっと高額かもしれない。

フェルメール等にも言える事なのだけど、
作品の評価は時代によって大きく変わる。

追記/
改めてネットで検索すると、
1930年代の1ポンドは、現在の日本円で7,500円くらいとも。
そうすると、5000ポンドは37,500,000円。
ドラマの中でコンパニオン女性は、
自分の喫茶店を再建する為の資金が欲しかったという動機を語っているから、
37,500,000円だとすれば適正と思える。

だとすると、
やっぱりレンブラント作品安く見られ過ぎ!

歴史に名を残す偉大な作曲家チャイコフスキーの、悪妻と言われた妻、
アントニーナの半生を描いた映画。


19世紀後半のロシア。
地方都市の貧乏貴族の娘アントニーナは、音楽家の道を志すも、
学費が払えなくなり、中退。
母親に辛く当たられてモヤモヤした日々を過ごして20代後半となり、
16歳の時に一目惚れしたチャイコフスキーに、意を決してラブレターを送る。
チャイコフスキーは年齢差(8歳年上)を理由に申し出を断るが、
2回目のラブレターを受け取った後、
アントニーナからの持参金の話につられて、結婚を承諾。

しかし、

実は同性愛者のチャイコフスキーは、女性との暮らしが耐えられず、
逆に、一途に慕ってくるアントニーナに嫌悪感を抱く。
作曲活動にまで影響が出始めたチャイコフスキーは離別を決意。
アントニーナはあくまでも離婚を受け入れず、2人の溝は深まるばかり。
当時、チャイコフスキーは「白鳥の湖」「エフゲニー・オネーギン」等、
歴史的名曲を書き上げて公演を成功させるに至っていたが、
結婚の破綻のゴタゴタで精神的に疲弊し、自殺未遂を起こす。
アントニーナは弁護士を通じて
チャイコフスキーから僅かな生活費を受け取っていたが、
同様に、生活も精神的にも徐々に崩壊し、晩年は精神科病棟暮らしとなる。
チャイコフスキーはコレラに罹患し死去。


北欧バロック絵画を思わせる、精緻な映像が美しく、
心を揺さぶるドラマの展開も素晴らしい。
傑作と言える。

映画では、受け入れられない愛にすがるアントニーナの姿が切ない。
当時のロシアの社会がどのような状況だったかわからないので、
何とも言えない部分があるが、
チャイコフスキーが同性愛者であると結婚前に知らせられなかったのも、
悲劇の原因の一端であったのは確かだろう。

アントニーナにとって、天才作曲家チャイコフスキーは神のような存在。
その妻の座を手放す事など考えられない。
彼に愛されて結婚したのだと信じたい。
結婚式で、神の前で、生涯を共にすると誓った。

現代の基準で単純に見れば、
カミングアウト出来ないチャイコフスキーが、
同性愛を隠して結婚したのがまずかった。それも、持参金目当てでずるいし。
アントニーナは、同性愛について知らされても、何故か全く怯まない。
真の愛情なのか、偶像崇拝的な執着なのか。
現代でも、偶像(アイドル)を崇拝して奇抜な行動に出るファンもいるけど。

所謂、クローゼット・ゲイ(隠れゲイ)は後世も大勢いて、
家庭生活を無難にこなしている人もいれば、やりきれない人もいる。
チャイコフスキーは「天才」故に、
自己の感情に走る事を止められなかったようにも見える。

セレブレンニコフ監督は、
「彼女にとって最も重要な神はチャイコフスキーだった。」と語っている。
「チャイコフスキーとの結婚を神に祈り続け、
 神の座がチャイコフスキーになってしまった。」

信仰心の薄い日本人の自分にはわかりにくいけれど、
欧米人が神に捧げる愛って、
よく言えば、見返りを求めず、一方的に捧げ尽くす、
どこまでも盲信、妄信するような、
底の無い沼のようなものなのかもしれない。

「私はチャイコフスキーの妻。」と言い続けたアントニーナ。
そこまで愛し切れる人と巡り会えたのは、ある意味本望だったかもしれない。

チャイコフスキーって、髭面の写真とかから、かなりなお爺さんだと思いきや、
亡くなった時、まだ53歳。
もっと長生きしていたら、膨大な数の名曲を作っていただろうとも思いつつ、
そうはならない運命だった。
モーツァルト然り。
天才って、そういうものなのかもしれない。

映画の感動を味わうのが大事だとして、先に映画を鑑賞。
その後、ドキュメンタリー番組を見る。


映画では、単純な誤認を利用して大尉になりきって芝居を続けるうちに、
徐々にエスカレートして、精神的に侵されていく流れのようだったけど、
ドキュメンタリー番組によると、実際のヘロルトは、
少年期から権威主義的で、弱い者いじめをしたり、
ナチスに傾倒して少年団に入隊していたり、ほぼサイコパスのようだった。
流石にそれでは観客の共感を得られないとしてか、
映画では段階を追って狂気に陥る姿が描かれていたように見える。

最初にフライタークのような、純朴で忠実な人物に出会わなければ、
笑い話で済んだかもしれないという皮肉。
はしっこい兵士は偽の大尉だと気付きながらも、
状況に便乗してしまい、自らを破滅させてしまった。

ヘロルト自身はどうだったのか。
最初は生き延びる為の嘘だったのだろうけど、
次第に権力が快感になっていって、歯止めが効かなくなった。
残虐な処刑をも「大尉」のなせる技と見ていたのだろうか。
だとすると、罪の意識は薄いのかもしれない。

ラストでは、骸骨となった屍が大量に転がる森の中を逃げていく。
自分さえ生き延びる為には、他者の犠牲も何とも思わない、冷徹な利己主義。
ヘロルトの姿ははヒトラーとナチスの小型版として象徴している。
エンディングでは、ヘロルトと部隊が現代で市民を摘発する様子が
戯画的に描かれる。
ヘロルトのみならず、ナチスもまた、
ある種の陳腐なドラマに陶酔して、役を演じていた。

ただその根底には、深い利己主義の闇がある。