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マンガ家Mの日常
ウディ・アレン監督・脚本のロマコメ映画。


大学の映画学教授モートは、小説の執筆に行き詰まっていた。

映画会社の広報担当である妻スーに付き添って、
スペイン、サン・セバスチャン国際映画祭にやって来る。
スーは担当する若手有望映画監督フィリップと終始ベタベタしている。
フィリップは数々の映画賞に輝くが、
クラシック映画に造詣が深いモートの目には軽薄に写る。

スーとフィリップの中が深まるのを見て、体調を崩したモートは、
友人達に地元の医師を紹介してもらい、診察を受けに行く。
ジョーという名前から、男性だと思っていた医師は、若い美女だった。
モートはジョーに夢中になり、その後は仮病を使って会いに行く。

ジョーは画家である夫の浮気に悩まされていたが、離婚には至らず。
モートはNYに来るよう誘うが、断られる。
一方、スーはフィリップと真剣交際に至り、離婚を切り出す。

モートは結婚も恋も失ったが、我が身を見つめ直せたとしてNYに帰る。


映画通でスノッブで、実は恋愛体質という、貧弱な体型の初老の男性は、
まさしくウディ・アレンの分身。
初期のウディ・アレン作品から、脇を固める役として出演している
ウォーレス・ショーンが演じている。
2020年の公開当時、ショーンは70代後半、ウディ・アレンは80代半ば。
立派な後期高齢者だけど、仕事に恋愛に、熱い。

いつものウディ・アレン節。
驚きは薄いけれど、安定感がある。
敬愛するクラシックの巨匠監督達へのオマージュとして、
モートが映画の一場面に溶け込むような幻想を見る。
フェリーニ、ゴダール、ブニュエル、ベルイマン等々。
映画通のウディ・アレン作品ファンにはたまらない仕掛け。

ウディ・アレン、現在89歳。
クリント・イーストウッドに次ぐ高齢監督?
元気だなぁ。
興行成績とか評価とか、面倒な事は気にせず、好きに撮って欲しい。
でも、そういう事を気にしているからこそ、勢力的に映画作りが出来るのかな。
もう1本、日本未公開の作品が控えている。

ウディ・アレンの映画が観られない人生は寂しい。
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ジェーン・バーキン主演の恋愛映画。
監督は当時のパートナーのセルジュ・ゲンズブール。


クラスキーとパドヴァンは産業廃棄物運搬処理の仕事で転々としている。
立ち寄ったカフェバーで、クラスキーはバーテンをナンパしようと声をかけるが、
振り向くと、ショートヘアでスレンダーな女性ジョニーだった。
ジョニーは若くてイケメンのクラスキーに一目惚れして夢中になるが、
実は、クラスキーとパドヴァンはゲイカップルだった。
魅力的なジョニーに惹かれてクラスキーはデートを重ねるが、
本質的にゲイなので、ジョニーの身体を受け付けない。
ジョニーは自分を男性として扱うよう求めて性行為するが、正直痛くてたまらない。

パドヴァンはゲイを毛嫌いする若い男性達にボコられる。
クラスキーとの仲も不安定になり、
嫉妬に狂ったパドヴァンはジョニーを窒息死させようとする。
危ういところでクラスキーが現れ、ジョニーは助かるが、
クラスキーが真のパートナーとして選んだのはパドヴァンだった。
2人はジョニーを置いて町を去る。

「ジュ・テーム(愛してる)」
「モワ・ノン・プリュ(自分は全然そうじゃない)」


1976年の作品。
今からほぼ半世紀前。
元はゲンズブールが不倫関係にあったブリジット・バルドーの為に書いた歌で、
かなり強烈なエロティックな内容だったらしい。
その後、ゲンズブールはジェーン・バーキンと付き合うようになって、
2人のデュエットで発表されたとある。
映画のストーリーは歌とは別物なのかな。

何れにしても、歌同様、映画もかなりの問題作。
当時のフランスで、同性愛カップルがどう見られていたのかはわからないけど、
クラスキーがポーランド人、パドヴァンがイタリア人という設定で、
フランス人男性ではなかったところに、批判を避ける意図が見えるような。
とは言え、
直後に大作「1900年」の主演を控えたジェラール・ドパルデューが
ゲイの青年として登場するあたり、やはり色々勝負をかけてたんだろうな。

ジェーン・バーキンが一糸纒わぬ姿で性行為のシーンを演じている。
単純に考えると、
自分のパートナーにそこまで演じさせたいか、とも思うけど、
互いに信頼出来るパートナーで、作品に対する信念を共有出来たからこそ、
撮影に取り組めたのだろう。

何にせよ、これが半世紀前の作品というのが衝撃。
むしろ、70年代のヒッピーカルチャーの時代だったから実現したのかな。

時代は進行しているようでいて、後退もしている。


ラッセル・クロウ、長編監督作品2作目。
観終わってからちょっと間が空いてしまったので、
ストーリー詳細はあちこち忘れつつある。


ジェイクはオンライン・ポーカーゲームの開発で巨万の富を築いた。
しかし、不治の病で余命を知るところとなり、人間関係の清算を決意。
暫く疎遠になっていた幼馴染の友人達を邸宅に招き、ポーカーゲームを開催。
それぞれに高級車をプレゼントするといった大盤振る舞い。
友人達のグラスに微量の毒を盛り、彼らのトラブルについて言及する。
アルコール依存症のマイケル他、
ジェイクの妻と不倫中だったり、政治家としての問題を抱えていたり。
ジェイクは友人達にトラブルの解消を誓わせる。

ポーカーゲームの最中、美術品強奪を狙った一味が襲撃をかけてくる。
ジェイク達は協力して強盗団を打ち負かす。

数ヶ月後、病で亡くなったジェイクの遺言状が開かれる。
娘と友人達の幸せを願って、多くの資産を分け与えていた。


有名な映画スターが監督に向かう例としては、
ロバート・レッドフォード、クリント・イーストウッドが実績を残しているが、
今作のラッセル・クロウはまだ物足りない。
脚本もクロウ自身が手がけているけれど、どうにもバランスが悪い。
前半の瞑想のシーンなんかは不要だし、
強盗団も陳腐で、本来のテーマからは外れている。
友人達にやたらと寛容なのも、よくわからん。

クロウ、まだ60歳と元気なので、
監督業を続けるなら、もっと研鑽を積まなきゃね。
脚本を冷静に批判してくれるスタッフが必要。
でもその前に、もう少し身体を絞って欲しい。
「グラディエーター」の頃に戻るのは無理だとしても。

マイケル役はリアム・ヘムズワースで、実年齢はクロウとは25歳も離れている。
エンタメとしてイケメンを入れるのが重要だったのか、友情出演なのか。
それにしても、クロウと同級生という設定はちょっと無理がある。


アメリカの実話を基にした金融ドラマ映画。


金融アナリストのキースはYouTubeで個人的な株式情報の配信をしていた。
2020年、ビデオゲーム小売業者ゲームストップの株価下落に着目。
個人資金を投じて大量に株を買い、値動きを配信。
2021年にはゲームストップのチェーン店閉鎖を想定した
大手ヘッジファンドの空売りが発覚。
キースとその視聴者達は小口投資家として積極的に株を購入すると、
株価が爆上がりして、大手ヘッジファンドは莫大な損失を出す。

ヘッジファンド幹部達は圧力をかけて、
SNS上の株取引の場であるサブレディットを閉鎖させると、
ゲームストップ株のパニック売りが急増し、事態は一変。
株は暴落し、キースは大衆を扇動して混乱を生じさせたとして、
米国下院証券取引委員会の調査を受ける。

キースの適切な証言が評価され、騒動は収束。
ゲームストップ株は下落したままだが、
キースを信じている小口投資家達は株を保有し続け、支えている。
良いタイミングで売却した者は大きな利益を上げ、
タイミングを逃した者は依然損失を抱えている。


「マージン・コール」に続き、金融映画。
やはり、市場の仕組みや金融取引用語は難解。
わかったふりして観るしかない。
でも、「マージン・コール」よりはコメディタッチを楽しめたかな。
株の売買で大金を得る金融の世界って、殺伐としている。
物を作ったり、サービスを提供したりしてお金を得るのが、
あるべき人の道だと思う。
貯金代わりの投資信託はやってるけど、当てにしてたら痛い目をみる。

キース役はポール・ダノ。
注目の俳優だけど、やっぱり顔が暗いなぁ。
冒頭で出て来たセス・ローゲンが主演かと思ったら、出番はそう多くはなかった。
随分と身体を絞って、顔つきが変わっていた。
前のふっくらした感じが良かったんだけどなぁ。
「キル・ユア・ダーリン」の美青年デイン・デハーンもチョイ役で出演。
やはり年齢を重ねて雰囲気が変わった。
人間だもの。


実話を基にしたスリラー映画。


19世紀、ニューイングランドの小さな孤島に2人の灯台守が派遣される。
ベテランの老人トーマスは灯台の灯りの作業に固執し、
若い新人のウィンズローに、力仕事やあらゆる雑用を押し付ける。
2人の仲は、険悪になると同時に、接近してもいる。
トーマスは様々な昔語りをするが、どれも真実かどうか定かでは無い。
疲労と孤独とで、ウィンズローは精神的に疲弊し、幻覚を見るようになる。

4週間後、交代で島を出られる筈が、突然の暴風雨で迎えの視察船が来ず、
暫くの間、食糧支援も無いまま、島に閉じ込められる。
2人は泥酔して、ウィンズローは素性について話し始める。
本名はトーマス・ハワードで、カナダで樵をしていた。
不仲の男ウィンズローを故意に事故死させ、身分を乗っ取り、灯台守に志願した。

嵐で住まいも破壊され、2人の狂気の度合いが深まり、殺し合いになる。
ウィンズローはトーマスを殺して鍵を奪い、最上階の灯室に上がり、
不思議な光におののき、階段から転落する。
カモメ達が倒れたウィンズローの腑を生きたまま喰い千切る。


スタンダード・サイズの白黒映画で、時代背景を意識した映像で、
ドラマ性よりも、表現主義的な意味合いが強いように見える。
2人の狂気が交錯して、真実は闇に溶け込む。
最終的に、灯台の灯りを目にした後、転落して、鳥に腑を食い千切られるのは、
ギリシャ神話で火を盗んで人間に与えて罰せられたプロメテウスを連想させる。

正直なところ、エグくて重苦しいばっかりで、説明がつかない。
ネットで他の方の論評を読むと、性的な描写に関する記述や、
特にウィンズローの精神錯乱について書かれているけど、
要は、監督は、諸々不明のままに、鑑賞者に委ねるのが狙いだったらしい。
まぁ、海外の作品を観る時にはよくある事だけど、
その国の歴史や文化を知らないと、メタファーはわからない事だらけ。

老人役のウィレム・デフォーはなかなかの怪演。
ウィンズロー役は「トワイライト」の美男子ロバート・パティンソンで、
もう随分と大人の俳優になったなぁ。
「バットマン」のようなメジャー作品の主演も務めているけど、
今作のような芸術性重視の作品は高く評価されるから、
演技のし甲斐があっただろう。

カンヌ国際映画祭では、受賞はしていないものの、絶賛されたらしい。
カンヌって、こういう難解なのが好まれる。
もし自分が制作者側だったら、興行収入を思うと、
こうした作品には取り組みづらい。
それでも、作家性を重視した作品作りを貫徹するのは、
自身の芸術性に、信念と信頼があるからだろう。