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マンガ家Mの日常
一昨日から昨日にかけて、酷い気圧頭痛が続く。吐き気がして、食事もできない。
薬を飲む為に、無理やり手近なパンを流し込む。

昨日は午後にテニススクールがあり、休もうかと思ったけど、
スクールの料金1回3000円が惜しくて、身体に鞭打って参加。
帰宅後、シャワーした後、スープおじやを無理矢理流し込んで、薬を飲んでベッドに入る。
横になっている方が少しは楽。

夜9時過ぎ、けたたましいサイレンで目が覚める。
火事なのか、事故なのか。
大事そうだけど、起きて確かめる気力がない。
そのうち、少しサイレン音が弱まる。
しかし、やむ事はない。

すると、深夜、また大きなサイレン音が響き始めた。
流石に気になって、コートを引っ掛けて外に確かめに出る。
火元はすぐ裏手のピザ屋らしい。
他にも出て来た近所のオジサンがいて、消防士に様子を尋ねていた。
どうやら、火災はとっくに鎮火していて、
今のサイレン音は次の現場へ行く為のものとの事。
オジサン「そんなに騒がしくしないでいいだろう。」と苦言を呈していた。

暫く眠れなくなり、録画していたドラマを観ながら、スープを飲む。
その頃には気圧頭痛もだいぶ治って、食欲も少し出て来た。
ドラマを最後まで観ながら、笹かまぼこと柿を少しずつ食べる。

翌朝、火災のあったピザ屋を覗いてみるが、大して荒れてもいなかった。
僅かなボヤだったのかな。

深夜でも出動する消防士さん達には本当に感謝だけど、
念の為とは言え、消防車の出動が大袈裟過ぎる。
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今週は用事の多い週で、
今日は少し余裕があったので、雑用を片付けられると思っていたら、
寝起きから酷い気圧頭痛。
間が悪い。

10月前半まで、日中30℃を超える真夏日さえあったのに、急に寒くなった。
季節の変わり目は辛い。
まだ秋冬物の服も用意していない。

とりあえず、頭痛薬を飲んで寝るようにしたいけど、眠れるかどうか。

洗濯機に繋がっている水道蛇口の水栓の持ち手部分が、いきなり外れた。
そんなに変な力を入れたわけでもないのに。

不意に外れると、洗濯機の後ろ側に落ちてしまい、
洗濯機が重くて動かせないので、拾うのに凄く手間がかかる。
隅っこの掃除用に、縦に伸ばした針金ハンガーを使って、何とか引っ掛けて掬い上げる。
シンドイ。

今年、配管工事を行なった後の事だったので、その時取り付けた物だと思って、
工事会社に連絡したが、工事の前からあった物だと言われてしまった。
工事の前に撮った写真があると言われた。
自分としても、少し記憶が曖昧で、何とも言いようが無いが、
とにかく、工事の後で外れるようになったので、修理を要求したが、
どうもやる気が無いらしい。

水栓の付け替えとなると、2〜3万円かかると言う。
日々、細かく節約して生活しているのに、
こんなところでお金が出ていくのかと思うと悲しくなる。
元々の古い水栓は壊れてもいなかったのに、何故新しいのがすぐに壊れるのか。
工事業者が安物を入れたのか。
そう思うと、更に悲しくなる。

配管工事も安くはなかった。
こうして、あちらあちらからお金を毟り取られる。

週明けに、また業者と言い合いをしなければならないだろうし、
それでまた修理や工事をするかどうかと考えると、酷く暗い気持ちになる。
電話口では、両面テープを使うだとか、バカみたいに素人くさい事を言われた。
そんなので修理になる筈ないだろが。

業者が少しでもまともな修理をする気がないようなら、とりあえずそのままにしておいて、
キッチンリフォームの時にまとめてやるか。

とにかく、日本の工事業者って、意思の疎通が難しい。
これまでも所々修理をして来たが、
何につけ、強引に済ませようとするばかりで、こちらの話を聞こうとしない。

「親切は人の為ならず」とは、
他人に親切にすれば、いつか自分に返って来る、という意味。

でも、少し違う場面もある。

他人に親切にした時、ある種の満足感を覚える。
自分は他人に親切に出来るだけ有能なのだ、人格者なのだと。

それを戒めたのが、映画「尼僧物語」の中の修道女。
オードリー・ヘップバーン演じる新米尼僧が、病気の人達へのボランティアを希望する。
ところが、先輩修道女は、それは優越感や承認欲求を満たす行為だとして禁じる。
新米尼僧は、一度は考えるが、ボランティアの必要性を重視して、修道院を離れる。

そうなんだよね。
相手が救われ、喜ぶ、
その事の方が大事。
動機よりも、「親切」という行為が優先されて良い。

観終わった映画の感想記事を書いて整理したいのだけど、
雑事に追われて、あれこれ手を付けられず仕舞い。
ストーリー運びの強い映画は、記憶に残りやすいのだけど、
感性主体の英語は、結末も朧げになる。